2009年12月11日金曜日

久々登場! KちゃんとTちゃん

元はといえば、Kちゃんの育児休暇中にみんなで赤ちゃんを見に泊りがけで横浜に遊びに行ったことがきっかけで、銀座の先生の話を知った私(←詳細は3月の「プロフィール」参照のこと)。
 所属する部が組織変更されたことによって、ビルの所在地がちょこちょこ変わったため、本社勤務のKちゃんとTちゃんとはなかなか会えずにいた。
 しかし5月の下旬に本社の近くにあるビルに私の所属するセクションの場所が移転されたため、たまにはKちゃんとTちゃんとランチできるようになった。
 最初に銀座の先生をみんなに教えてくれたRちゃんは現在育児休暇中で、先生から子どもはふたりできると占われたそうなので、また次のお子さんに恵まれる可能性は大だ。

「清永さん、どうです? 最近。占い通りにいってますか?」
 そう聞くのはKちゃん。
 Kちゃんも2回銀座の先生のところには行っていて、1回目に行ったときはいまひとつピンとはこなかったらしいが、2回目に行ったときにお母さんの病気のことを言われて、慌ててお母さんに確認したところ本当に深刻な症状になっていて、先生のアドバイスに従い、九州からお母さんを引き取り、介護休暇を取って看病にあたった。その甲斐あって、お母さんは回復し、危機的な状況からは脱したのだという。
「Kちゃんもあれからどう?」
「そうですねえ。銀座の先生から去年の12月に二人目が授かるって言われてたのがハズレてましたね。あと会社を辞めて独立するって言われたのもまだ実現してないかな」

「Tちゃんは?」
「ほら、私が言われたのは、離婚以外のことは先の話ばかりだから、まだまだわかんないね」
 Tちゃんが銀座の先生に診てもらって、離婚線なるものを入れてもらった話も3月の「プロフィール」で書いた通り。

「清永さんの小説って結局どうなったんですか?」
「そうそう、知り合いの編集者に見せてるって話じゃなかったっけ?」
 この日のランチにチョイスしたお店は会社近くの和食屋さんで個室風の作りになっているので、密談っぽくっていい感じ。
「何にもなってないよ。営業の人に見せるって話から進んでないし」
「他の編集者にも当たったほうがいいんじゃないですか?」
「あと何かの新人賞に出すとか?」
「それもありだけど、いまひとつ自分で積極的に動くっていう心境でもないんだよね」
「清永さん、せっかくいいこと言われてるんだから、本当にそういうふうになるといいんだけどなあ」
「そうそう対策会議開こうよ」
 めちゃめちゃうれしいことを言ってくれるKちゃんとTちゃん。
 持つべきものは社内のお友だちよねえ~(←しみじみ)。

「でもさ、銀座の先生の言ってることって当たってるかな?」
 ちょっと懐疑的になっている私。
「うーん。過去とか現在のことはほぼ完璧なんですよねえ」
「そうそう。あまりにも当たってるから、紹介者が前もって私の情報流したのかって疑ったぐらい」
「そうだよねえ。確かに過去と現在のことはバッチリなんだよね。でも知りたいのは過去のことじゃなくて未来なんだよね」
「ほんとほんと。私に関していえば、未来については半々ぐらいかな」
とKちゃん。
「私の紹介で先生のところに行った人も結構いるけど、みんなの話を聞いてると確かに半々ぐらいかなあという気はするなあ」

「なんかね、ちょうどそのときに言ってほしい言葉を銀座の先生ってドンぴしゃりと言うんですよ。私の場合はそのころちょうど二人目のことを意識していたときだったし、辞めて自分で何かできればなあって考えてたから、先生に言われたことってすっごくうれしかったんですよ。けどそのあとこのまま会社にいてもいいかと思うようになったし、二人目ももう少しあとでもいいかって思うようになったから、言われたようにはなっていないけど」
「なんか話を聞いていると、きっと言われたことによってその通りになるように努力させるっていう意味合いもあるかもね」
「なるほど~。占いによって努力を引き出すっていうことね」
「そうそう」

 努力かあ~。そう言われると何も努力していないよなあ。
 しかも自然と言われた通りになるっていうことだったけど、実際はどうなんだろう。
 相変わらず、漠然と毎日を過ごし、流されている私なのであった。

2009年12月6日日曜日

黒百合姉妹③

 JURIからの電話の用件はライブのお誘いだった。あいにくどうしても抜けられない用事があり、ライブには行けなかったのだが、良かったらうちに遊びにおいでよという話になり、その週にJURIとLISAがうちに遊びに来てくれた。

 夫をふたりに紹介するのは初めてだった。
 ふたりの好きなワインやチーズを用意して、久々に楽しい時間を過ごす。
 いっしょに食事をするのは8年ぶりぐらいじゃないだろうか。
 ふたりとも出会ったころと見た目もまったく変わっておらず、その変わらなさ具合はまるで「15年間いっさい容姿が変わってはいけない」という契約をアメリカの会社と結んだといわれるプリンセス・テンコーを彷彿させる。
 また博学で教養豊かな彼女たちとの会話は無条件に楽しい。
 元々パンクで黒百合姉妹の音楽にほとんど興味を示していなかった夫も、すっかり彼女たちを気に入ったようだ。

「そうだ。黒百合姉妹が出てくる小説を書きたいんだけど、いい?」
「えぇ~、私たちどんなキャラなの?」
「黒百合姉妹はそのままで、主人公は黒百合姉妹のファンの子なの。できたら見せるよ」
「そう。じゃあ楽しみにしてるね」

 それから1週間もしないある金曜日の夜、家の近所にできたペルシャ・レストランの様子を探ろうとそのレストランの前まで、保育園のお迎え帰りに子どもたちと寄った私はこちらに向かって歩いてくるLISAに出くわした。
「あれ? なんでこんなところにいるの?」
「あらあら、清永さんこそ。この前ね、JURIとお邪魔したときにペルシャ・レストランを見つけてね、ゆうさんも好きそうだと思って、また来てみたってわけよ」
 LISAの横には華奢で上品な感じの女性が立っている。その女性は黒百合姉妹の母、ゆうさんだった。
「あ、ご無沙汰してます」
「お会いしたことあったかしら?」
 ありますよ~。お母さん! と、いっても10年以上経ってるか。

「あ、奇遇奇遇。実は私もこのレストランが気になって様子を見に来たんだ~」
「な~んだ。相変わらず私たち気が合うわね」
「じゃあ、あとで合流しようよ。私たちも家族で出直すから。そのあとうちで飲もうよ」
「いいよ~」
そういうことで、黒百合姉妹LISAとそのママ&うちの家族で怪しげなペルシャ・レストランというおもしろすぎる展開に。

そのペルシャ・レストランはなぜかカーペットの上で靴を脱いで食事をするようになっていて、レストランのスタッフはダルビッシュ(!)さんというオーナー兼シェフ兼ウェーターただひとり。そして客も私たちのみ。
イランのワインを飲みながら、優しい味のするペルシャ料理を堪能していると、ダルビッシュさんが、「おいしいですかぁ~」とものすごく堪能な日本語で話しかけてきて、「ではライブを始めます」
といきなりあたり一面に見たこともないような楽器を並べ始めた。それもイランの古い楽器らしく、ダルビッシュさんがひとつひとつ楽器の説明をしてくれて、音も奏でてくれる。

食い入るように見つめる私たち。
一通り音を出したあとに、次々と楽器を変えながら吟じ始める。
ああ、素敵過ぎる光景。私は中近東系の文化が大好きで(←だからモロッコにもハマったのだが)、こういうエキゾチックなシチュエーションには大いにヤラれてしまうのだ。
子どもたちも目をキラキラ輝かせながら、聞き惚れている。
しかし関係ないが、うちの子どもたちはラッキーだ。小さいうちからこういった異文化のものにちょくちょく触れているのだから。
私の子どものときなんて、家で流れてたのは裕次郎とか青江美奈とかロス・インディオスなんかのムード歌謡一色だったぞ(涙)。

ダルビッシュさんが子どもたちにも小さな太鼓を持たせてくれて、やってごらんといっしょにリズムを刻み始める。
うれしそうに太鼓を叩き始める子どもたち。
「ふたりともリズム感いいねえ。上手だよ」
次第にリズムセッションのようになってきていて、時折ダルビッシュさんがリズムのパターンを変えて、変化球を投げてくる。
10分ぐらい太鼓を叩いたあとに、
「娘さんもリズム感良くて上手だったけど」
とダルビッシュさんは前置きしたあと、
「この男の子、すごいよ。音楽の才能、めちゃくちゃあるよ。お母さん、絶対にこの子にはドラムでもいいし、リズム感が最高にあるから、何かやらせてあげてよ」
と言うではないか! その後も何度も「いやあ~、驚いた」と繰り返している。
いやあ~、驚いたのはこっちだって!
これがもしかして、銀座の先生に言われた息子の天才ぶりの一環なのか?

片やLISAは弦楽器の方をしげしげと眺め、
「これいくらですか?」
と突然値段を尋ねる。
「私、買う!」
と言い出し、楽器の細かい解説を聞き始めるLISA。
ピアノではなく弦楽器! 黒百合姉妹の音楽にペルシャ楽器が導入される日が来るのか!と勝手に興奮していると、
「それはないから」
とLISAからあっさり否定された。

ペルシャ・レストランをあとにして、我が家で飲み始めた私たち。
 黒百合姉妹もおもしろいけど、さすがこの娘たちにしてこの母、ゆうさんもめちゃくちゃぶっ飛んでいる。
ゆうさんともたくさんお話をして、その日も楽しく過ごした。

 それから5日ほどしたあと、LISAから電話がきて、ゆうさんが関西に帰る前にもう一度うちに遊びに行きたいと言っているという。
 ぜひぜひ来てくださいなということになり、LISAとゆうさんがやってきた。
 もちろんこの日も話が尽きることなく、楽しい時間はあっという間にすぎていった。
 久しぶりの黒百合姉妹だったが、6月は短期間の間にギュッと何年かぶりのご無沙汰を補うかのように黒百合姉妹三昧と言う贅沢な月であった。
 それは満ち足りた時間でもあった。

2009年12月5日土曜日

黒百合姉妹②

 偶然、黒百合姉妹のJURIとお友だちになることのできた私は、その後姉のLISAも紹介してもらい、LISAともつるむようになる。
 思ったとおり、好きな音楽も一致していて、CDの貸し借りをしたり、黒百合姉妹のほかのCDもいただいたりして(←「月の蝕」以外もものすごく良かった! 今でも全部愛聴盤になっている)、親交を温めた。
 マガジンバトル後には私が所属していた音楽雑誌でJURIの連載も始めた。
 
そんなある日、彼女たちから黒百合姉妹のライブに出ないかと誘われる。
「いろいろと演出を考えたんだけど、やっぱりコーラスで参加してもらうのがいいかな」
とJURIが選んだのは、「ローリー」と「花」という比較的初期のころの作品2曲。どちらとも大好きな曲だったので、私は大いに張り切った。
だって大好きなバンドのライブに出られるなんて経験はめったにできないでしょう。

 ところが、である。
 私はLISAから特訓を受けていたのだが、どうも私が音痴であるということが判明してしまったのだ。
 それまで自分が音痴だって知らなかったというのも間抜けな話だが、ひとくちに音痴といっても、誰にでもわかるひどい音痴だったわけではなく、どうも半音シャープの方向に音が不安定になるのだそうだ。
ところがその半音の違いが私には区別がつかない。
しかも私は大学時代にハードロックバンドでボーカルをやっていたのだ(←赤面モノだ!)。
もちろんロックでもきちんと音が合ってなければ話にならないだろうが、ギターの音だったりドラムの音である程度、ロックバンドのボーカルだとごまかせてしまう。
ロックで大切なのは何より勢いだったりするからだ。

しかし黒百合姉妹の音楽は違う。音の構成自体繊細だし、完璧主義者の彼女たちは妥協を知らない。
彼女たちの強烈な美意識は微かな(←私の音のハズし方は微かじゃすまなかっただろうけど!)ズレでも容認できなかったはずだ。
というわけで、私の黒百合姉妹ライブ競演は夢のもずくと化したのである。
JURIは何度も「ごめんね。誘っておいて」と恐縮してくれたが、とんでもない。音痴な私がいけないのだ。期待に添えなくて残念だったが、やっぱり黒百合姉妹には完璧を目指してほしい。

そんなこんなもありつつ、初めての出会いから3年ちょっと過ぎた1996年秋。
私は念願叶ってレコード会社の制作セクションへ異動になった。
異動になったセクションは「とにかく新しいものをやれ」という邦楽も洋楽も関係のない異例づくめの制作オフィスで、何を担当するかということまで白紙の状態だった。

たまたまその直前にモロッコ音楽にハマっていたこともあり、モロッコ音楽と黒百合姉妹の2本柱でやっていきたいと考えた私は部内で猛プッシュを始めた。
本人たちも私とならメジャーでもいいと言ってくれ、それだけ信用してくれているのだとうれしかった。
当時業界最大手のメジャーレーベルだった会社では、私の企画はぶっ飛びすぎていたらしく、大いに反響(←っていうか反感!?)を呼んだ。
モロッコ音楽では組むパートナーがいたので(←のち決裂)、ある程度形が見えていたが、黒百合姉妹に関しては完全に孤独な戦いになってしまった。
ふたつの企画を押して押して押しまくったが、辛うじてモロッコ企画だけが通り、黒百合姉妹の契約までこぎつけられなかった。

黒百合姉妹は売り方によってはミリオンいくかもしれない。
当時私は強くそう信じていたし、実はその気持ちは今でも変わっていない。
いったん引いて、モロッコに専念し、モロッコである程度の成果が上げられれば、次は再度黒百合姉妹。そう思っていた。
ところがモロッコ音楽自体も簡単には売れず、私はその部署自体を去ることになった。
このとき黒百合姉妹をデビューさせることができなかったことが、私の中ではトラウマとして残り、実はしつこく現在まで至っている。

前の会社を辞め、音楽業界から足を洗った私は、結婚もし、子どもも産みとまったく違う生活を始めたが、それでも細々と黒百合姉妹との付き合いは続いた。
新作のCDが完成するたびに送ってくれるし、何年かに一度はライブに足を運んでいる。
JURIが関西に引っ越してしまったこともあり、滅多に会えなくなってしまったが、相変わらず私は黒百合姉妹のCDを聴いているし、どうすれば黒百合姉妹が売れるかということを今でも考え続けている。

モロッコ音楽を作っていたときの経験を基にした「エッサウィラ」という小説を書き終えたとき、とっさに次は黒百合姉妹だと思った。
モロッコ音楽は限りなく実話に近いけど、黒百合姉妹の場合はまったくのフィクションにするつもりだ。
主人公はロリータになりきれない高校生の女の子で、黒百合姉妹の大ファンという設定で書き始めたのだが、頓挫した形になっている。

黒百合姉妹に捧げる小説を書き始めたことを、本人に伝えたほうがいいかなあと思っていた今年の6月のある日、何かお互い通じるものがあったのか、何年かぶりにJURIから電話がかかってきた。
ああ、私たちにはやっぱり何か目に見えない力で結びついているのね! 
と妄想エンジン全開の私であった。

2009年12月3日木曜日

黒百合姉妹①

黒百合姉妹というバンドをご存知だろうか?
 JURIとLISAという姉妹によって20年ほど前から活動しているバンドで、私は彼女たちの大ファンなのだ。

 黒百合姉妹との出会いは1993年だ。その当時、私は音楽雑誌の編集者をしていた。
 渋谷のタワーレコードでインディーズのコーナーをチェックしていたら、「月の蝕」というアルバムがあり、そのジャケットワークに一目ぼれしてしまった。
 ホーリー・ワーバートンというイギリス人の女性アーティストによる耽美的なイラストにすっかりノックアウトされた私は、さらに音を聴いてイントロのコンマ数秒ですでに黒百合姉妹の信者になっていた。

 バッハ作のパイプオルガンと美しい声で始まるこのアルバムの1曲目は、その日のうちに我が家の留守番電話のイントロと化した。
 ちなみにそれまではオランダのプログレバンド・フォーカスのヨーデル歌唱でおなじみの「Hocus Pocus」が我が家の留守番電話のイントロだった。

 黒百合姉妹の音楽はこれ以上ありえないほど、私のツボを突いたものだった。
 美しいメロディ。神秘的な世界。実はクラッシック好きの私が特に好きなのは、ルネッサンス期の音楽だったり、それ以前の作者も誰だかわからないような教会の古い音楽で、これらのジャンルは「古楽」とか「音楽史」というカテゴリーに入っている。
 きっとこの人たちもこのジャンルが好きなんだろうなあと思い、よし、アルバム全部揃えるぞ!と心に誓った矢先に意外な出会いを経験する。
 なんと! 黒百合姉妹のCDをジャケ買いして1ヶ月もしないうちに、ボーカルのJURI本人とお友だちになってしまったのだ!

 出会いはまったく偶然だった。
 ちょうど私が担当している音楽雑誌と同業他社が出している音楽誌計3誌で、それぞれの雑誌がイチオシのバンドを立てて競う“マガジン・バトル”という企画が進行していた。
 要は3誌が一致するイチオシバンドを擁立し、合同企画で毎号各誌乗り入れ掲載し、イベントでファン投票によって勝敗を決めるというもので、今から考えてもかなり画期的な企画だったと思う。
 この企画の立案者はハリー・ジェーンというバントのマネージャーをしていたI氏。元々ハリー・ジェーンを売り出す企画だったのだが、このI氏の戦略が素晴らしかったのは、ハリー・ジェーンだけではなく、他のバンドも巻き込み、違う会社同士の雑誌もバトルとは言いながら、裏で組ませ、みんなで協力して3つのバンドを盛り立てていくことが可能になったからだ。
 ひとつひとつのバンドや雑誌がそれぞれ紹介しても取れるスペースが限られてしまう。
 でもマガジンバトルでなら、それなりに紙面を割くことができる。
 また選ばれた3誌の担当者も絶妙な構成だった。当時私を含めてみんな若くて同世代で、各々の雑誌で自分のやりたいバンドをなかなかやらせてもらえなくて悶々としていたのだ。
 3誌の担当者と他の2つのバンドをどうするかという話し合いになったときに、推したいバンドも即決だった。
 3人ともハリー・ジェーンの他に推したのは、電気グルーブを脱退したCMJKがピコリンと組んで作ったキュートメン、もうひとつは当時まだまだマイナーだったイエロー・モンキーだった。
 話し合いの結果、私の担当はキュートメンになり、キュートメンを盛り上げるためにライバル誌の編集部に殴りこみをかけたり、激辛カレーの早食い競争をさせたり(←ちなみにボーカリストに咽喉の負担を強いる激辛のものを食べさせるとは何事!とあとでヒンシュクを買った。確かに。若気の至りである。この場を借りてすいませんでした)
考えられる限りのアホなことをやった。

 ライバル誌RJ誌も負けていなかった。私たちが直情型のアホなら、RJ誌はひねったアホというかカルトなアホを模索していた。
 ある号のRJ誌の企画は、「オッパイ占いでバトルの勝者を占う」というもので、占い師としてその場に呼ばれたのが、なんと黒百合姉妹のJURIだったのだ!
 
 彼女は占い師としても活躍していて、当時「タモリ倶楽部」で「オッパイ占い師」として紹介されて有名になっていたのだ。
 「オッパイ占い」という言葉だけがひとり歩きしてしまった感が強いが、実際は相手の手を自分の鎖骨から下のあたりに触れてもらい、自分も相手の同じ場所を軽く触れてオーラを感じるというものだ。
 生で見るJURIは黒い髪を長く伸ばし、全身黒いドレスを身につけていた。切れ長の瞳はなんでも見透かしているようで、占われるバンドのメンバーたちも緊張した面持ちだった。

 しかしなんという偶然! 
 取材が終わったあとに女性だけで何人か食事でもしましょうという流れになり、よーし、お近づきになれるチャンス!とばかりにJURIの向かいに席をゲット。
「黒百合姉妹のファンなんです。うちの留守番電話に曲を使わせてもらっています」
と音楽雑誌の編集者にもあるまじき自己紹介をすると、
「生年月日を教えてください」
と返された。
 うーん、さすがプロの占い師。
 いきなり占い始めるJURI。ただしJURIと出会えた喜びがいっぱいでそのときに占ってもらったことをほとんど覚えていない。

「清永さんは赤ワインを飲んでください」
と自身も赤ワインを飲んでいるJURIが言う。
「なんで?」
「あなたは赤ワインがよく似合うからです。そうしてください」
「あ、はい」
 そういわれてから赤ワインを飲み始め、今ではすっかりワイン党(←ビールもウィスキーもいくけどねっ!)になってしまったのだから、人生はわからないものだ。

佑子さん(仮名)の報告

 保育園のお迎えでバッタリと佑子さんと鉢合わせる。
「あれ、ずいぶん早いね?っていうか、もう辞表出したんだったっけ?」
 SEの佑子さんはワンマン社長から突然賃金を下げられたことに怒り狂い、5月には辞表を出すと言っていたのだが、すでに6月も半ば。しかも会社帰りの様子だ。
「あれから行ってきたよ。銀座に。その話もあるんだけど、美央さん、今日予定は?」
「まあ特に何もないけど。じゃあうち来る? 夕食は何か出前でも取る?」
「いいねえ。じゃあお邪魔するよ」

ということで、佑子さんは子どもたちを引き連れて我が家へ。子どもたちは子どもたちで勝手に遊んでいる。
 缶ビールで乾杯しながら、佑子さんは本題に入る。
 話によると銀座の先生は初めに、会社の状態や社長の話を長々話し始めたらしく、佑子さんが、
「会社の話はもうどうせ辞めるんだから、どうなろうとどうでもいいんです」
と言っても、
「スパっとは辞められませんよ。長引きます」
と言われてしまったそうなのだ。

「冗談じゃないよ、スパっと辞めたいのにさあ」
「で、結局スパッと辞められたの?」
「労働局に駆け込んだんだけど、手続きが結構かかるらしく、会社にまだ行ってるのよ」
「じゃあ、先生の言ってること、当たってるじゃん」
「これに関しては微妙よね。ずっとかかるっていうようなこと言われたからね」
「他は何言われたの?」
「他は実家のこととか、ダンナのこととか」

 佑子さんは銀座の先生に言われたことを一通り教えてくれて、
「でもね、1回目の方が感動だったな。今回はちょっといまひとつな感じ。まあだからといって2万円損したとは思わないけど、何せ1回目のインパクトが強かったから。その分、2回目は感動が薄れてたってことかな」
と自分自身を納得させるかのように、ビールをぐいっとあおっていた。

早紀ちゃん(仮名)がうちにやってきた

早紀ちゃんがうちに電話をしてきて10日ほど経ったとき、本人がうちに遊びに来ることになった。
 おばあちゃんちがたまたまうちから歩いて5分とかからないところにあったらしいので、我が家のあたりに土地勘のあった早紀ちゃんは、ワイン片手に「どぅもどぅも~」と言いながらやってきた。

 子どもたちが、
「この人だれぇ?」
と寄ってきた瞬間、英語講師としてのスイッチが自動的に入ってしまうのか、
「ハロゥ~、エヴゥリワン! アイム・サッキー、ユー・マスト・ビー・A(娘の名前)アンドL(息子の名前)!」
と異様にテンションが高くすっかりネイティブ化する早紀ちゃん。久しぶりに早紀ちゃの英語聞いたけど、やっぱりうまいよなあ。それなのに、
「はあ? なんで英語しゃべってんの? 日本人なのに!」
と身も蓋もないことを言う子どもたち。
「キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ? オッケー、レッツ・トーク・イングリッシュ!」
 めげない早紀ちゃん。
「いいよ、日本語で(←言われていることはわかっている)」と娘。
「日本語しゃべってよ」と息子。
 早紀ちゃんがどれだけ英語で話しかけても、全部日本語で返す子どもたち。

 ガックリと肩を落としているところに夫が帰ってくる。
「ハァーイ、アイム・サキ。ナイスチューミーチュー」
と再び流暢な英語で夫に話しかけるものの、
「あ、こんばんは。はじめまして」
と夫からも思いっきり日本語で返されて、それでも英語で話し続ける早紀ちゃん。よっぽど英語が好きなんだなあ(←感心)。

 早紀ちゃんも交えて夕食を摂り、子どもたちもお風呂に入れたあと、夫が外でゆっくり飲んでおいでよと勧めてくれたので、早紀ちゃん行きつけのロック・バーに出かけた。
 その店はうちから歩いて5分ぐらいのところにあった。
 カウンターだけの狭い店でカウンターの奥にアナログのターンテーブルが2台置いてあり、壁は一面アナログのレコードが隙間なくビッチリと置かれていた。
 かかっていたのはシロい感じの80年代ロックが主でスミスとかアダム&ジ・アンツとかジョイ・ディビジョンあたりのイギリスのバンドのものが多かった。
 そういった懐かしい音楽がそれほど大音量でもなく、いい感じで流れてくる。
 この手の店に来るのはどれぐらいぶりだろう。
 
 軽く音楽談義をしたあとで、本題に入る。
 しばらくお互いの仕事の話を報告し合いながら、特にお互いが関わっている分野についての意見交換は、喧々諤々の議論になってしまった。
 なぜなら早紀ちゃんが師事している団体のやり方と私のかつての上司、鋼鉄の女との手法は水と油でまったく合わないからだ。
 早紀ちゃんが師事しているこの世界のカリスマおばあさんと鋼鉄の女は犬猿の仲で、特に鋼鉄の女は蛇蝎の如くカリスマおばあさんのことを嫌い抜いていた。
 お互いがそれぞれから多大な影響を受けているために、今後のエデュテイメントのために何か考えるという話にはなかなかならず、双方の言い分はまるで代理戦争の様相を呈していた。

「なんかよ、ケンカみたいになってねぇか?」
「確かに」
「あとよぉ、公教育で個人が参入することって可能かな。俺の住んでいる市がやっている英語教育って学校によってバラバラでよぉ。どこの学校に通っているかによって受けられる教育が変わっちゃうんだよ。そういうのって、公教育の平等性からいっておかしいだろ? たとえば俺がお前と組んで市の教育委員会に入り込むってありなのかな?」
「ないね!(←キッパリ) 長年英語教育に携わっている会社がその信用をバックに市教委に話を持っていったって、なかなか入り込むことなんてできないんだよ。ましてや個人相手だとボランティアの地域の人材として活用されるのがオチだよ」
「そうかぁ~、厳しいなあ。なんかないかなあ。まあボチボチ考えてくか」
「うん。この少子化の時代に教育関係で何かとなればよっぽど考えないとね」
「そりゃ、そうだ」

 会ってみたところでなかなか妙案は浮かばない。
 さてどうなっていく?