2009年6月12日金曜日

鋼鉄の女、定年退職する

3月末にHANAちゃんが契約期間満了のため会社を離れたあと、私と上司である鋼鉄の女稲橋さん(仮名)はふたりきりの部署になった。
ご主人の介護のため午後しか出社できない彼女だったが、それでも仕事は恐ろしく早く、コンピュータ並みの正確さと緻密さで周囲を唸らせていた。

私の会社は60歳になったその月の最後の日が定年退職日になるのだが、たいていの人は「継続雇用」制度を利用して、週に3回とかの勤務になりお給料も大幅に減ってしまうが65歳まで働き続けている。
制度ができた初めのころは、以前いた部署とは無関係の部署へ行くという決まりがあったが、その決まりもなし崩しになり、結局は人によっては以前いた部署にそのまま継続して働くことになった。
そのあたりは確かに微妙で、ある人が定年退職してまでその部署にとどまり続ければ後続が育たないという面もあるが、専門的な知識や技術がある人の場合にはわざわざほかのセクションに行かせるなんて無駄だ。
そうなると結局はその人次第ということになってしまう。

稲橋さんは資生堂の5万円のクリームを愛用しているせいか、年齢不詳でどう見ても直に定年退職を迎えるようには見えない。
美人できれいに着飾っているタイプじゃないけど、薄化粧でも肌はきれいで服装もいつもモノトーンのパンツ姿で年齢を感じさせなかった。
彼女が継続雇用で残るとすれば、間違いなくこの部署に残るであろうことは明白だった。
そうこうしているうちに8月になった。彼女は8月生まれだった。

8月の中頃に、彼女は私に言った。
「私の定年退職の日に、5時半の定時が終わった瞬間にフロアー中が揃って“お疲れ様でした!”って言ってお花を贈呈なんてことは間違っても考えないでね。そんなことをまかり間違ってやったら殺すからね」
「ひゃあ~。わかりました!」
「そういうの、私の美学が許さないのぐらいあなた、わかるでしょ?」
「そうですねえ」
「当日にこそっとフェードアウトしてしまうのが私の理想なんだから」
「じゃあご自宅にお花が届くのはどうですか?」
「え?」
「なにもないっていうのもみんなの気がすまないと思うんですよ。ましてや稲橋さんは長く会社に貢献されてきたわけだから。もちろん美学は尊重しますけど」
「ふふ。家に届く花なら大歓迎よ」
「じゃあそれで決まりですね」
 
いったんは継続雇用を考えていた稲橋さんだったが、退職日直前にご主人の病状が悪化してしまい、働くどころではなくなってしまった。
緊急入院されたご主人の介護のため、定年退職のその日すら彼女は会社に姿をあらわすことができなかった。
こうして鋼鉄の女は会社を去って行った。私はひとり残され、途方に暮れた。
彼女は仕事に生きていた。敵も多かったが、この分野では間違いなく天才だった。まさにこの事業のブレインだった。

鋼鉄の女はことあることに言った。
「私の第一プライオリティーは夫だから。夫に何かあったらそっちを優先する。けどそれ以外の時は仕事を頑張る」
鋼鉄の女は尽くす女でもあった。
私は夫に何かあったときそこまで尽くせるだろうか?
鋼鉄の女はやっぱり強かった。

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