2009年11月10日火曜日

意外な再会

 ある日、思わぬ人からランチのお誘いのメールが来た。
 その人の名は樫村早紀(仮名)。早紀(さき)と聞けば一見女性の名前だけど、彼はれっきとした男だ。まあたとえていうなら亀井静香や押阪忍みたいなものか。
早紀ちゃんは前の会社の一期上の先輩なのだが、昔から私は彼に対してなれなれしくファーストネーム+ちゃん付けで呼んでいる。
前の会社を10年ほど前に辞めたあと、とんと消息はわからなかったのだが、2008年の11月、私たちは意外なところでバッタリと顔を合わせた。

10年前に音楽業界から足を洗った私は今の会社に移り、社内で部署異動を繰り返し、流れ流れて、今は教育関係の部署にいる。
音楽業界と教育業界はまったく似ても似つかぬ世界で、それぞれの業界に向いているタイプも全然違えば、付き合う人種もまったく違う。
音楽業界にいたときは、毎日が変化に富んでいて付き合う人たちもでたらめで不規則な生活ながらも楽しいこと悔しいこと腹の立つことなどジェットコースターに乗っているみたいに次々といろんなことが起こる日々だった。
若くて独身なら最高に楽しい生活だが、20代後半からいずれは結婚をして子どもを産み育ててという人生プランを考えていた私は、音楽業界に踏みとどまっていてはワークライフバランスが取れないと考え、悩んだ挙句30代前半に学生時代にめちゃくちゃ憧れて、念願かなって入社できた会社を辞めた。
今でも退職届を出して駅に向かう途中に振り返って見た本社の背後でゆらゆらと揺れる大きな夕焼けをありありと思い出せる。

その後、縁あって今の会社に入り、思い描いていたように結婚もして、子どももふたり産み育て、仕事も無理なく続けるという理想どおりの生活をしている。
たまたま教育関係の仕事に関わることになったのだが、前にいた部署が最悪すぎた(←詳しくは3月のプロローグの章参照のこと)こともあってか、決して居心地の悪い世界ではない。
自分にとってべらぼうにおもしろい仕事かと言われれば答えはノーだが、自分の子どもを持つことによって教育の世界にも興味が出てきたし、何よりも規則的な9時5時的な生活が送れることは大きい。
最優先事項が家庭となった今は自分にとってのやり甲斐などは二の次、三の次だ。
 そんなときに教育関係のフォーラムで早紀ちゃんと出くわしたのだ。

 早紀ちゃんはアメリカの大学を卒業後、前の会社に入社して得意の英語力を買われて国際部にしばらく在籍していたが、その後社長の肝いりで出来た社内レーベルのメンバーの一員になった。
 その社内レーベルは制作1から7まであって、それぞれのレーベルには4人か5人のメンバーが配置されていた。ひとつのレーベル内で制作から宣伝までするというのは今ではふつうに行われているようだが、当時は制作と宣伝はきっちり分かれていたから、画期的な組織形態だった。
 社長のもくろみは1から7までのレーベルを横並びで競わせ、ヒットを狙うというものだった。
私は制作1でモロッコ音楽の制作をしていて、早紀ちゃんは制作2だか4だかで、邦楽アーティストの宣伝をしていた。
早紀ちゃんが国際部にいたときに散々仕事をしたというメンバーがふたり制作1にいたことから、よく私たちの部署に顔を出していて、それでなんとなく仲がよくなったのだ。

早紀ちゃんはまったく異性を感じさせない人で(といっても線の細いゲイタイプとかではない)、なおかつあまり業界業界していないタイプの人だった。
プライベートでは早紀ちゃんの異業種のお友だちを紹介してもらい、みんなで飲みに行ったり、湯沢にある早紀ちゃんちのリゾート・マンションに泊まったり、ドライブに出かけるなど、大学のテニスサークルのようなノリで遊んだものだった。
 
意外な場所で早紀ちゃんと再会したのだが、お互いに時間もなかったので、名刺だけ慌てて交換して別れた。
早紀ちゃんの名刺は東京郊外の学習塾の塾長になっていた。
そういえば実家が学習塾をやっているという話を昔聞いていた。どうやら実家の跡を継いだようだ。

「こんなところで会うとは夢にも思わなかったよ。今度連絡するから飲みに行こうぜ」
と言い、久しぶりに会った早紀ちゃんはしばらく会わなかった歳月の分だけきっちりおじさんになっていた。
 私も意外な再会に驚き、そして懐かしくちょっぴりうれしくなったが、その後は何度かのメールのやりとりだけで終わってしまっていて、再び早紀ちゃんのことを忘れかけていた矢先にランチのお誘いがあったのだ。

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