その週の日曜日は前の会社の先輩・須崎さん(仮名)に会いにいくため、同じく前の会社の後輩・山木(仮名)と川越に向かった。
須崎さんは私より3つ年上で、新入社員だったときに隣の編集部にいて、そのころはそれほど親しかったわけではないが、その後、レコード会社の営業に異動になったときに、部署がいっしょになり、その後は山木も加わりちょくちょく飲むようになった。
その後、私が営業所から別の部署に異動になっても、会社を辞めて今の会社に移っても、1,2年に1回ぐらいの割合で会い続けていた数少ない前の会社の仲間だ。
5,6年前、須崎さんが大阪営業所に異動になり、行くか辞めるかというときにも相談に乗った。
最後に飲みに行ったのは1年半ほど前。酔った勢いで女子4人で執事カフェに行こうと池袋の町を繰り出したのはいいけど、あいにく休みで次回は絶対に行こうねと誓い合ったものだった。
それからしばらくして執事カフェに行こうとメールでやりとりしているうちに、約束の日時が決まらなかったのだが、ひょんなことから須崎さんにすい臓がんが見つかったという話を聞くことになってしまった。
見つかったときには末期だった。
2008年の11月、私と須崎さんは2人で前の会社のOB会に出向き、そのあとふたりっきりで飲んだ。
ここ数年で10キロ太ってふっくらしていた彼女は、痩せていて私が新入社員だったころの彼女に戻ったみたいだった。
痩せてはいたけど、相変わらず微笑んでいるような優しげな表情の彼女のどこに病魔が潜んでいるのか、まったくわからなかった。
なんとなくがん患者って見るからにがん患者だとわかるかのような錯覚をしていた私にとって、見た目が普通なのに実はがんを患っているっていう現実がどうしてもピンとこなくて、本人を目の前にして何か悪い夢でも見ているような気分になった。
家族や友人の死というものをほとんど経験したことのない私にとって、今目の前で食べたり飲んだり喋ったりしている人がいなくなるというのが何を意味するのか、想像もつかないことだった。
ただ本人から「これで会うのも最後かもね」とあっさり言われたときには、考えるより先に涙がこぼれた。
「清永、なんで泣くの?」
なぜか彼女は私にそう聞いた。
なぜ泣けてくるのか?
難しい理由は何もない。
もう会えなくなるんだと思うと単純に寂しくなったのだ。
それから3ヶ月弱。
その間にも彼女は入退院を繰り返し、山木や彼女の病気を私に知らせてくれた須崎さんの元彼とも時間を合わせてはお見舞いに行ったりした。
彼女はGoogleでブログを始めていて、私は日々それをチェックしていた。彼女の闘病記は同じ病気で苦しむ人の治療の参考になればというコンセプトで書かれていたので、具体的な病院名、抗がん剤、治療方法、検査数値などが詳細に書かれていて、いかに今の日本の医療は遅れているか、いかに患者の立場を鑑みたシステムになっていないかということに常に怒りを表明していた。
それと同時にいかに生きるか、いかに死ぬか、日々彼女は悩み、考え、うろたえ、怯え、何かを得てという思索を繰り返し、そういった心情も正直に吐露していた。
さすがは元編集者が書いた文章だけあり、読ませるブログになっていた。写真もイラストも何もない文章だけのブログ。
余分なものは何もない潔さに惹かれて、私も同じGoogleでブログを開設したのだ。
この日の須崎さんは抗がん剤投与から間が空いているので調子がいいと言い、駅で待ち合わせたときも顔色がよかった。
駅から歩いて5分ほどのところにあるアフタヌーンティーに行き、私と山木は紅茶とケーキを、須崎さんはパスタを注文していた。
須崎さんと一対一ならなんだか気まずくて何を話したらいいのか、言葉が出なくなってしまいそうだったが、こういうときの山木は自然で気負うことなくいろんな話題を提供してくれた。
若いときの山木は真っ直ぐで正義感がやたらめったら強くって、まじめで融通の効かない暴走機関車のようなキャラクター(←これ、褒め言葉ですよ! 褒め言葉!)が、先輩たちから可愛いヤツと認識され、愛されたものだった。
それがいつの間にこんなスマートさを身につけているなんて、前の会社を辞めたあとベンチャー系を渡り歩き、今や管理職というのも伊達じゃない。
山木の機転のおかげで、私たちは病気の話し以外にも話題のコスメの話、前の会社の人の噂話、映画の話、音楽の話などしゃべりまくり、傍から見たら単なるおしゃべりなアラフォー3人に見えたことだろう。
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