2009年10月5日月曜日

悲しいお話③

 川越まで須崎さん(仮名)のお見舞いに山木(仮名)と行ってから、1ヵ月後にフォーシーズンズ宿泊計画を実行した。
 桜のシーズンより1週間早かったが、ホテルの部屋から見下ろせる椿山荘の庭園は桜が咲いていなくても十分すぎるほどすばらしかった。
 さすがは天下のフォーシーズンズ。
 
 須崎さんはすでにレストランで食事をすることが難しくなっていたので、すぐに横になれるように山木とデパ地下でシャンパンやワイン、チーズやお惣菜を買い込んで部屋に持ち込んだ。
 気分を盛り上げるためにルームサービス(←お茶漬け2200円! おにぎり1600円! 金粉でもまぶしてるのか!?)も頼み、同じく前の会社で今も働いている嵐山さん(仮名)も呼び、食べては飲みくっちゃべった。
 ゴージャスな場所でアラフォー4人。
話題は男、仕事、ファッション、人の噂話。
まさに気分は「セックス&シティ」だ。
これで楽しくないはずがない。
 時折須崎さんは体調が悪くなると横になっていたが、私たちが好き勝手にしゃべっていると、体調が復活すると会話にも参加して楽しそうだった。
 ホテルの部屋を満喫し、翌日は須崎さんの体調も良かったので椿山荘を散歩して、私たちは笑顔で別れた。
思えばこのころがフォーシーズンズなんかに泊まれる最後のチャンスだったのだ。

 それから2週間後、再びがんセンターに入院した須崎さんを山木とともに訪ねた。たった2週間の間に須崎さんは自分の力でトイレに行くこともできなくなっていた。
 食事もとれなくなっていて、別人のように痩せていた。
 フォーシーズンズではアルコールも飲み、タバコまで吸っていたのが嘘のようだった。
 ここまできて私と山木はようやく須崎さんは末期がんにやっぱり罹っていたんだということを思い知らされる。
 それまでは頭では理解していても感覚的にわからなかったのだ。やはりビジュアルの力は大きい。
 それでも私と山木はやっぱりバカ話をして、好き勝手にしゃべって帰った。
 須崎さんは「落ち込んでたけど気が紛れた」と言ってくれ、私たちは救われた気分になった。
 それが私たちの聞いた最後の須崎さんの言葉らしい言葉だった。

 それから須崎さんのブログは本人ではなく妹さんや親友の方が代筆するようになった。私たちはブログで彼女の容態や入院情報を知るしかなく、がんセンターにお見舞いに行ってから1ヵ月経ち、次は豊島病院のホスピスに入ったという情報を得て、山木と私、他、前の会社の友人2人の計4人で彼女の元を訪れた。
 私と山木は段階的に須崎さんに会っていたので、ショックは少ないほうだったかもしれない。
 それでも私と山木はそのときの須崎さんを見て言葉を失った。
 もう呼吸も自力でできなくなっていて、呼吸器をつけられた須崎さんは文字通り骨と皮だけになっていたのだ。
 他の2人はどんなに驚いたことだろう。
 パジャマの上からも骨の形が透けて見えた。あれだけふっくらしていた人でもここまで痩せてしまうのか。

 意識が混濁しているという話だったが、私たちが来ているということはわかったようで、必死で何かを言おうとしているのを、山木が制止した。
 山木はこんな状況でも何事もなかったように、世間話を始める。
 私は下手に何かを言えば泣き出してしまいそうで、黙って須崎さんの手を握った。痩せて骨だけになった手だったけどびっくりするぐらい温かく、まだ血が通っているのだと改めて思う。
時折須崎さんの体がビックっと動く。山木は飾ってある花の様子を須崎さんに伝えてあげている。山木以外の3人は山木が何か言うたびに「そうそう」とか「うんうん」とかしかぐらいしか言えなくて、須崎さん本人も「ふう」とか「はあ」とか「うう」とか音を発することしかできないようだった。
「じゃあまた近いうちに来るね」
そう言うのがせいいっぱいで病室を出ようとしたときに、須崎さんは出せる力のすべてを振り絞るように小さく手を振ってくれた。

「私たちが来たのわかったんだね」
「うん。手を振ってくれたね」
 病室を出た後、私たち4人は目を真っ赤にして「近いうちにまた来ようね」と誓い合った。

翌朝、山木から須崎さんが早朝に亡くなったという連絡が入った。
私たちと別れて8時間ほど経ったあとに亡くなったことになる。私たちが最後の見舞客になったのだ。
ちょっと前まではあんなに温かい手をしていたのに。
人って死んでしまうんだ。
そんな当たり前のことが重くのしかかる。
結局須崎さんは銀座の先生のところには行かなかったけど、もし行っていたら先生はなんて彼女に言葉をかけたんだろうか?
今でもずっとそのことが心に引っかかっている。

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