2009年5月27日水曜日

2008年6月のある日の夜⑤

「小説ってなんやねん。お前、どんなん書いてんの?」
と超大手広告代理店Hの局長代理田上さん(仮名)がニヤニヤしながら聞いてくる。
「ええっと、恋愛小説」
「恋愛小説!?」
「いや、こいつね、昔会社の金使ってモロッコに出張に行って、現地の男とやりまくっとったんですわ。まあ言ってみればこいつの男遍歴の告白本ですわ。もうエロいしエグイし大変でっせ」
なぜか解説を始める森田(仮名)。そうだ、思い出した。この男にも最初原稿を送ってたんだった。レスポンスの早い本田くん(仮名)とはうってかわり、この男は原稿を送ってもうんともすんとも言ってこない。むむむむ。

「そういえば、あんたに原稿送っとったよなあ。あれ読んだんか?」
「速攻で読んだっちゅうねん」
「あれそうなの?」
「いや、実はおもろかったわ。続きはないんけ? はよ送ったってくれよ」
「そう言ってもあんた、全然レスポンスないやん。本田くんを見てみい。すぐに連絡をくれていろいろと感想やらアドバイスとかくれるで。彼は編集者の鏡やで」
「いや、ほんまや。俺、最低な編集者やなあ。本田は正しい! っていうか、俺は悪いけど、もう編集者やなくて社長やっちゅうねん! 俺は社長業が忙しいねん!」
となぜか私の後頭部をどつくふりをする森田。ひとり漫才である。

 「ふう~ん。なんかおもろそうやん」
 いつの間にか3杯目のビールを頼んでいる田上さん。
 「これね、マジでおもしろいんですよ。清永さんのあんなことやらこんなことやら赤裸々に描かれてますから。これがまたエロいんですよ。文章もね、実はうまいんですよ」
 ここでも褒めてくれる本田くん。すばらしい。
 「へえ、清永の男遍歴かあ。そいつは読みたいなあ。俺はお前の恋愛関係はほとんど把握しているつもりやったんやけど、まんだいろいろとやっとったんやなあ。っていうか、おまえ、俺のことは書くなよ」
 こらこら。やったことないやん! というより私の純恋愛(私的には)小説がなんで、好色一代女みたいな扱いをされているのだ! 遺憾である。

 「俺も読みたいなあ。このふたりは読んでるのに、俺だけ読んでへんって、いややん。お前、帰ったら速攻で俺にも送ってくれよ」
 「わーい、田上さんも読んでくれるの? じゃあ送る送る」
 「おう、楽しみにしてるで」
 
「うちのグループ本体の社長の西岡さん(仮名)やったら、すぐに映画化やって言いだすやろうけどな」
と森田。
「何よ、映画化って」
「なんかあの人、本読んだらすぐに製作委員会を立ち上げて映画化に話持ってくんよ」
「へえ、映画化かあ」
「いいと思いますよ。モロッコの映像とかきれいそうだし、そうなったら原作はうちで、ノベライズは森田さんのところですかね」
と本田くん。
 「それはええねえ。で、西岡さんのところからサントラ盤を出して・・・」
 「もちろん、代理店にはうちを噛ませてもらうで」
 おおっと田上さんまで参入だ。
 みんな飲んだくれている席で適当なことを言っているだけの状態をはいえ、スケールの大きな仕事をしている森田や田上さんも加わると、与太話もでっかくなってくる。その後は版権がどうこうとか分配がどうだとか業界用語が飛び交いだす。
 そうかあ。映画化かあ。考えたこともなかったよなあ。

 その日はその後もガンガン、ビールを飲み、もう何の話をしていたのか途中からどうでもよくなりわからなくなってしまったが、単純な私は夢を見た。
 それは私が書いた小説が映画化されて、みんなでロケ地であるモロッコのエッサウィラに行くのだけど、どうもそこは私が知っているエッサウィラではないのだ。
 海外には間違いないんだけど、都内の私の住んでいる部屋とつながっていたりして、距離的な感覚もめちゃくちゃだし、ハリウッドスターやら日本の芸能人やら、なぜか小学生の時の同級生やらが、同じ場所にいて映画作りに参加しているのだ。
 もちろんありえない設定だ。
 で、肝心な私は何をしてたかといえば、飲んだくれたあげく、ハンモックに揺られながら、夫はなぜかジュード・ロウに変身していて(←それ、絶対にいい! ジュード・ロウかっこよすぎ♡)、ジュードにハンモックをもっと激しく揺すられて、気持ち悪いよなあ、けど彼はかっこいいし、揺らされると気持ち悪いんだけど、美しい彼の顔をもっと近くでみていたいしと激しく葛藤した揚句、身悶えていたのである。
 ついでに洋服がイマイチでいやだなあと夢の中までウジウジと考えていたことを追加しておく。

 翌朝ひどい二日酔いだったのは言うまでもない。

2009年5月26日火曜日

2008年6月のある日の夜④

 「で、実際、あの小説に書かれていることは何パーセントぐらい本当のことなんですか?」
 唐突に切り出すT書店の本田くん(仮名)。
「うーん、50%ぐらいかなあ」(←嘘。本当は70%ぐらい)
「50%かあ。そうかあ。清永さん、かなりやりまくってますね」
「そ、そうかあ?」
「そうです。相当です。けどいいんですよ。こうやって作品に昇華させましょう。いや、あれはすばらしい。あの短い文体もいいです。才能ありますよ、まさか清永さんにこういう才能があったとは。これ絶対どこかでやりましょう!」
 本田くん、酔っぱらってる? もう褒め殺しである。褒められると弱い私である。よーし、書いて書いて書きまくるぞ! ああ、もっと褒めて褒めて! 

 思えば子供のころからあまり褒められたことのない私である。
運動もだめ、手先も不器用、理数系が致命的に弱い。文章だって作文と読書感想文はどうも苦手だったのだ。
なので褒められるととってもうれしい。夫もたくさん褒めてくれる人だけど、いかんせん、外国人である。私の書いたものは読めないし、内容的にもあまり配偶者に読ませるようなものではない。
本田くんもそれを思うのか、
「ダンナさんとかにも読ませてるんですか?」
と心配げに聞いてくる。
 「読んでもあまりわかんないだろうし、わかんなさそうだから書けるというのもあるし、でも一応、こういうものを書いてるとは伝えてあるよ」
 「そうすっか」
 「あと何度も言うようにあれはあくまでも小説ですからね」
 「はいはい、そういうことにしておきますよ」
 本田くんに軽くあしらわれる私である。

 「お、そろそろ田上さん(仮名)と森田さん(仮名)も合流してくる頃ですよ。河岸を変えましょう」
 神楽坂の炉端焼きで2時間ほど飲んだのち、本田くんの行きつけの護国寺の串揚げやにタクシーで向かう。
 先に着いて本田くんとふたりでビールを飲んでいると、10分ほどして、
 「よお、お待たせ」
と田上さんが到着した。田上さんは超大手広告代理店Hの最年少部長就任記録を樹立した猛者である。
 田上さんが現れるとなんだか空気がピリッと引き締まる感じがする。
 「よっ! 部長!」
 私と本田くんがそう呼びかけると、
 「お前らなあ~」
と田上さんはのんびりとした口調で言い、
 「実はもう部長ちゃうんよ」
と頭を掻いた。
 「ええ!?」
 「ほれ、これ新しい名刺」
 田上さんの新しい名刺を見ると、なんと肩書きが「局長代理」になっていた。
 「局長代理ってめっちゃすごいんちゃうの?」
 田上さん相手だとすっかり関西弁になる私である。
 「まあどうなんやろうなあ」
 「清永さん、何言ってるんっすか。田上さんですよ。俺が男と見込んだ方ですよ。すごいに決まってるじゃないですか」
 田上さん相手にすっかり目がハートになっている本田くん。

 「よお、みんなお待たせ」
 そこへやってきた恰幅のいい男。夜なのに微妙な色合いのサングラスをかけた怪しい男。誰がどう見ても業界のわかりやすすぎるフィクサー然とした男。
そう、それが森田という男である。
「誰が局長代理にならはったんですか?」
「田上さんに決まってるやん」
と私。
「それはおめでとうございます」
「いやあ、君の場合はなんて言っても社長やからなあ。社長にはかなわんよ」
と田上さん。
「いやいや会社の規模っちゅうもんが全然違いますやん。そりゃあHで局長代理っちゅうんはごっついですわ」
「何をおっしゃいますやら。君んところの大元はなんていっても天下のSやからなあ。まあ、それはそれはグローバルなことやろう」
ちょっといやらしい展開である。その流れを強引に打破したのは、マスコミOB会きっての切り込み隊長、本田くんである。
「いや、おふたりともそんなことよりも、清永さんが小説を書いているんですよ」
「なんやって? 俺、そんな話は聞いてへんで」
と田上さん。
 「なんやそれ? お前、もっと詳しい話、聞かせてくれよ」
 田上さんがビシバシと突っ込んでくる。
 あらあら、意外な展開になってきたわ。

2009年5月24日日曜日

2008年6月のある日の夜③

 飯田橋駅近くのスーツカンパニーの前で、その日の夕方T書店の本田くん(仮名)と待ち合わせた。
 彼は一足先に待っていて、私の顔を見るなり、
 「いやあ、どうも清永さんと真理(私の小説の主人公)がダブって、まともに顔が見えないですよ」
と照れてみせた。
 「あははは」
 どう反応していいかわからなくて、ちょっと乾いた笑い声でごまかす私。
 「エッサウィラ」という私の書きかけの小説は、随所にHな描写を散りばめている。それも最初のコンセプトが、「Hのことも赤裸々に綴った旅行記」という意味合いもあったからだ。
 このところはすっかりお母さんになってしまっていて、恋愛だとか肉食女っぽいイケイケ感からほど遠い私である。(←当たり前だっていうの!)
 なので苦み走ったいい男である本田くんからそのようなことを言われると大いに照れるのである。
 その反面、中村うさぎの「私という病」という著作の中で彼女が書いていた中で最も印象に残っているのは、自分の女としての価値を知りたいという欲求に取りつかれた彼女がデリヘルで働きそこで感じたことをフェミニズムの要素を入れつつ新潮45で書き綴った力作を読んだという中年男性読者が、彼女に電話をかけてきたというくだりである。
 その読者は彼女をデリヘルで(取材の一環とはいえ)働くような女だから、自分も相手にしてもらえると思ったのか、妙に馴れ馴れしかったのだという。
 当然中村うさぎは腹を立て、相手の男性を理詰めでギャフンと言わせるのだが、もううさぎ様! よくぞ言ってくださいました、である。
 もちろん本田くんの言っていることは、単純にこの人もこういう一面があるんだなあという驚きだったり戸惑いだったりするんだろうから、いっしょにはできないが、書いていることイコール本人だと同一視されてしまうことがあるんだなとつくづく思った瞬間でもあった。

 私たちは飯田橋からそのまま歩いて神楽坂を上り、炉端焼きの店に入った。蒸し暑かった一日の終わりに冷えた生ビールはグングン喉を通り抜けていく。
 「あれからね、いろいろ考えたんですけど、携帯小説って線はないですよね」
 本田くんは煙草に火をつけながら切り出す。
 私も同感で、最初に本田くんから携帯小説にしたらどうかと言われていたが、私の書く内容はあまり携帯小説向きだとはいえなさそうだ。
 「要はね、携帯小説のマーケットっていうのは、簡単にいえば地方のヤンキーなんですよ。援助交際とか、虐待とか、病気だとかそういう下流の不幸パワーが満載なんですよ。これってどう考えても清永さんの書いている内容とは全然違うし、地方のヤンキーはモロッコとか知らないですしね。あと仕事のこととか音楽業界のこととかアラブ文化についてなど、内容も盛りだくさんですから、もうこのまま書き進めましょう」
 おお~、本格的に作家と編集者の打ち合わせっぽくなってきたぞ。

2009年5月20日水曜日

田上さん(仮名)と森田社長(仮名)

 田上さんも森田も大学のマスコミOB会のメンバーだ。
 森田は以前にも紹介したとおり、私とは大学も同学年でしかも最初の会社で同期だった。今は若くしてその会社(音楽系出版社)の社長をしている。
 20代のころはどれだけふたりで飲み明かしたかわからない。

 田上さんは私や森田よりも3期上の先輩で、超大手広告代理店Hの部長だ。田上さんはたまたまずっと私や森田がいた会社の親会社のほうを担当していた関係で、新入社員のころから可愛がってもらっていた。
 私は兄がいないので、お兄ちゃんってどんな感じかわからないけど、田上さんは「私的好きな男、嫌いな男(←アンアン風)」ランキングではほぼ20年近くにわたって、ぶっちぎり「お兄ちゃんにしたい」ナンバーワンなのだ。
 あの穏やかな関西弁で、「おまえはほんまにしょうもないヤツやなあ~」と言われると、もう「てへっ」ってなもんである。
 田上さんは超大手広告代理店Hで異例なスピード出世を遂げ、部長就任最年少記録を打ち立てたすごすぎる男だ。
 当然仕事もバリバリこなすが、人望も厚く、地方大学出身者にも関わらず、田上さんの馬力でなんと我大学出身者たちがその後、続々と超大手広告代理店Hに送り込まれ、学閥を形成しているという。
 それもありマスコミOB会ではキーパーソン中のキーパーソンであり、みんなの憧れの的である。
 そんなマスコミOB会の中でも暴れ馬で、好き嫌いの激しい本田くん(仮名)ですら、田上さんのことは尊敬していて、飲み会では必ず彼の隣りの席をゲットしているほどだ。

 そうか~、今日は本田くん、森田、田上さんの4人で飲むのか。ナイスすぎる組み合わせ。つくづく洋服がイマイチなことが悔やまれる。
 いつなんどき何があるかわからないから、おしゃれにはやっぱり気を抜いたらだめよね。
 そう強く戒められた金曜日の昼下がりであった。

2008年6月のある日の夜②

 T書店の本田くん(仮名)に原稿を送ってから、例によってすぐにレスポンスをもらい、褒めてもらい気分をすっかり良くした私。
 それから間髪を入れず、再度電話をくれた本田くん。
 「清永さん、今日、空いてます?」
 白昼会社にいるときの電話だったので、ドキマギしてしまい(嗚呼。小心者!)、コソコソと非常階段に移る私。
 けど会社の非常階段はどういうわけか、手すりのところがアッパッパーになっているので(しかも7F!)、高所恐怖症の私は恐ろしさの余り、失禁寸前だ。
高いところが恐ろしいからか、会社で小説の話(しかもエロ描写あり!)を編集者とコソコソ話すやましさからか、膝がガクガクと震えている。
「今日って?」
「夜ですよ。飲みに行きましょうよ。いろいろとこの小説について話をしたいし」
「そうだねえ。じゃあ、夫に予定聞いてみる」
と言いながらも、まったくそんな予定をしていなかったので、ああ~! 今日、ロクな恰好してないじゃん!と身もだえる私。

夫に電話を入れて、今日飲みに行ってもいい?と聞くと、どうぞどうぞと快く子どもたちのお迎えと世話を引き受けてくれる。
私の夫はとてもよくできた人で、妻である私には常に社会とのつながり、友だちとの付き合いを大切にしてもらいたいと考えてくれている。
毎晩飲み歩くなどとはもちろん論外だが、小さい子どもがいてもたまにならぜひ心ゆくまで飲みにいってらっしゃいと送り出してくれる懐の深い人だ。
それでいて、自分が飲み歩くことをするわけでもない。子どもたちがもっと小さい時は、会社での付き合いですら断ってくれていたほどだ。

「そうですか、ダンナさん、いい人ですね。じゃあ、せっかくだから森田さん(仮名)と田上さん(仮名)、呼びましょうよ!」
折り返し電話を入れた私に無邪気な提案をする本田くん。
「ええ? このふたりはめっちゃ忙しいよ。当日は無理でしょ? しかも今日、金曜日だし」
「だめだったらだめでいいじゃないですか。とりあえず俺、電話してみますよ」
「だって私、今日、そんなつもりじゃなかったから、洋服イマイチだし」
「また~、人妻が何を言っているんですか。まあ、森田さんも田上さんもだめだったら、ふたりで飲めばいいんだし」
「まあそうね」
と私。どっちにしても洋服がイマイチなのは心理的にマイナスだ。私は着るものとか、化粧の有無だとか、髪型がキマっているかどうかなどで、かなり気分が左右されるタイプなのだ。
めいいっぱいキマっていると思えれば、ちょっとは自信も持てるし、ダメな日はもうごめんなさい、だ。
で、この日はどうだったかといえば、ごめんなさい度60%ぐらいかな。

 「森田さんも田上さんも、今日OKですって」
 それから1時間後に電話をくれた本田くん。
 「え? マジで。2人ともよく当日OKだったね」
 「まあ、ふたりともそうは言っても途中参加ですけどね。お前らふたりで飲むんだったら混ぜてくれよって言ってましたよ」
 「あらあら」

2009年5月19日火曜日

2008年6月のある日の夜①

 何かを生み出したいというかつてないほどの創作意欲を持て余しつつも、ちょっとずつしか半自伝的小説「エッサウィラ」を書き進めるしかなかった私。
 もちろん言い訳はすぐにでも100個ぐらい挙げられる。
 フルタイムで仕事をしている。誰も締切なんて設定してくれない。子どもがふたりいる。習い事をしていてそれどころではない等など。

 6月に入ってからさすがに以前よりは進んだので、再度T書店の本田くん(仮名)に送った。
 編集者として本田くんの何が素晴らしいかといえば、真っ先に挙げられるのはレスポンスの速さだ。
 これはかつて編集者だった私自身に対する反省点でもあるのだが、執筆という作業はとても孤独なものだ。
書き進めながらもいいんだか、悪いんだかよくわからならいが、とにかく書くしかなくて書いている。
もしかしたら自分の書いているものは完ぺきだ、一字一句たりともいじらせないと自信満々で文章を書いている人もいるかもしれないが、そういう人がいるのなら、うらやましい限りだ。
私の場合は恐々、オドオドとこんなん書いてみましたけど、どないいたしましょう?ともう気分は一昔前に一世を風靡したアイフルのCMのチワワのようだ。(意味不明)
そんなんなので、勇気を振り絞ってせっかく編集者に見せたのに、何もレスポンスがなかったりとか、いまだにお目にかかった経験はないが、強面の編集者でビジバジと赤を入れられ、「つまらん、書きなおし!」などと言われたら、しょぼ~んとなってしまう。
ごめんね、打たれ弱くて、だ。

その点、本田くんは読んだらすぐに連絡をくれて、ツボをついた感想をこれでもかこれでもかと伝えてくれる。
そういうレスポンスがあるからこそ、書き続けようと思うし、おもしろいって褒められてようやく書いたことは悪いものではなかったんだなと安心することができる。
私は誰からわかってもらえなくても、自分の信じたことをやり遂げる強い意志の持ち主ではない。
 恋愛も同じで、まったく見込みのない恋愛を、私はこの人を愛しているからという理由だけで、たとえ片思いであっても愛を全うするタイプではない。
ごめんね、ヘタレで、だ。

けどそういうのって私だけじゃなくって、ほとんどの人がそうだと思うけど(違う?)、そういう著者の孤独を編集者時代の私がちゃんと推し量っていたかといえば、はなはだ疑わしい。
せっかく精魂傾けて書いた原稿をいまひとつリアクションしなくて、傷つけてしまったライターのみなさま、翻訳家のみなさま、著者のみなさま、この場を借りて謝ります。
ごめんなさい。

2009年5月14日木曜日

2008年4月

 4月も過ぎようとしていた。
 銀座の先生によると、なんであれ2008年1月から4月の間に興味を持ったことを勉強すればフリーへの道が拓けるということだった。
 ところがこの間特に新たに興味を持ったものもなく、仕事と家庭以外でやっていることといえば、以前からやっているピアノとフラメンコ、そしてT書店の本田くん(仮名)に見せるためにコツコツと書いている小説だけだ。
 その小説が少しずつでも進むたびに読んでもらっていたHANAちゃんは3月末に派遣の契約切れで、会社を去ることになった。
 彼女がいなくなった喪失感は大きかったが、何せ家が近いのはものすごくアドバンテージがある。さすがにしょっちゅうというわけにはいかなくなったが、ちょくちょく彼女はうちに遊びに来てくれていっしょに晩御飯を食べたり、電話したりメールしたりして付き合いが続いている。
 しかし近い将来の飯の種になりそうなものはさっぱり思いつかない。占いの見立てによると2010年の春には会社を辞めて独立することになっているのだ。2010年春といえばあと2年を切っている。
 これから勉強してモノになるようなものなんて、さっぱり思いつかない。

 部署を変わってからは、自分ならではのクリエイティビティとかその手のことにさえこだわらなければ、特に仕事に不満はない。
 おっかない上司はその分野ではカリスマ的存在で本当に尊敬できる人だし、そのうえご家庭の事情であまり会社には来ない。
 私たちの部署がやっていることは2008年に入って急に社内で注目されるようになり、社内的社会的にも大いに意義のある仕事内容だと思う。
 人間関係もいいし、ほぼ定時には帰ることができる。お給料だって特別いいわけではないが、ボーナスもあるし決して悪くはないと思う。
 だから娘が小学生になるからといって、無理に会社を辞める必要もないのだ。だって何であれ個人で何かを始めて今ぐらいの収入を得るのは難しいと思うし、娘が小学生になったところで学童とかその手のものが充実しているので、物理的にもフルタイムで働くことは大いに可能だ。

 けど私は会社員生活に飽きているのだろうか? 抽象的な言葉だけど、何かもっとクリエイティブなことがやりたいという焦燥感のようなものがどんどん強まってくる。
 ただその焦燥感は10代のころ、20代のころに感じたような何者かになりたいという全能感とは裏腹のコンプレックスみたいなもの、自意識が過剰に煮詰まったような青い特権意識とは別種なものだ。
 何がどう違うかうまく説明できないけど、自分自身が何者かになりたいというよりも、自分しか生み出せない何かを作り上げたいという欲求が日に日に高まっていった。

佑子さんの場合③

「ほかには何言われたの?」
「うん、仕事なんだけどね。1年後ぐらいに独立するらしい」
「え? そんな予定あるの?」
「考えてなかったわけじゃないんだけど、その時期が正しいのかどうかはわからないな。でも昇平は自分で勝手に勉強とかしてくれるタイプでもないから、私が家にいてちゃんとみてあげなきゃいけないような気はするんだよね。そう考えると早いほうがいいのかな」

 そうなのだ。昇平くんほど極端な例じゃなくても、子どもによっては大人がずっと見てあげたほうがいい場合もある。
 その場合、誰が見ることになるかといえばたいてい母親の役目になる。仕事を辞めれば収入は減る。けど子どもはどんどんお金がかかる。母親からの収入が減った分を父親だけの収入で補てんできればいいが、母親にキャリアがある場合はその分を父親だけで補うのは無理だ。ましてやこのご時世、父親の仕事だって今後どうなるかわからない。母親も働くことでリスクを分散するのは現在では生きていく上の知恵だ。
 ベストは自宅にいながら今までのキャリアが生かせる仕事ができ、なおかつそれなりの収入が得られることだ。
 私自身も娘が小学生になったときに、そうできればそれに越したことはないと考えている。そして先生からそうなると言われている。
 だから佑子さんの考えていることはよくわかる。

「あとね、パパに転勤の話が持ち上がるかもしれないんだって」
「そんな可能性あるの?」
「まああり得ない話じゃないだろうけど、この転勤話を断れば出世の道は絶たれるらしいけど、薄くしか出ていないし、断るかもしれないって。実際単身赴任ってことになれば、ご主人は浮気する可能性があって、家族のためにはならないから、出世しなくても断ったほうがいいんだって」

 再び佑子さんのダンナさんの顔を思い浮かべる。彼も忙しいながらもとっても子育てに協力的なパパで保育園の行事にも必ず参加しているし、送り迎えなどでもよくいっしょになる。
あのパパと浮気というのがうまく結びつかない。まあもちろん仮定の話だけど。

「で、パパにも占いの話したの?」
「うん、お金のむだだって」
「あ、うちと同じだね」
「まあ占いで何言われるか気になるからちゃんと聞いてこいよっていうダンナはちょっといやだよね」
「それは確かに。」
「ダンナっていうのは、なんでわかってくれないんだろうっていつもイライラさせられたとしても、スピリチャルなこととか、占いとかそういう科学では割り切れないことに理解がないぐらいなほうがいいかもね」
「それ絶対に言えてるよ」
 そう私たちはお互いの夫の話で盛り上がった。

2009年5月12日火曜日

佑子さんの場合②

「おお~、どうだった?」
「結論から言うとね、気は楽になったよ。確かに美央さんの言う通りすごくあの先生いいね」
「おお、そいつはよかったよ。で、昇平くんのこと、なんて言われたの?」
「いや、それがね・・・」

佑子さんの話によると、まずいつもの守護霊とか悪いものとかが憑いていないかどうかを見てもらう儀式を済ませたあと、先生が最初に言い出したことは佑子さんのお母さんの健康状態のことだったという。
 たまたまお母さんの写真を持っていたので、先生に見せたところお母さんのことをあれこれ言われ、そのあと一緒に写真に写っていた一番下の男の子のことをあれこれ言いだし、そのあとは佑子さんの仕事の話になり、いつまで経っても昇平くんの話が出なかったという。
 40分ほど経ったころに業を煮やした佑子さんから、
「あの~、うち実はもう2人子どもがいるんですけど・・・」
と切り出し、
「え? そうなの? あと2人もいるの? あら、全然わからなかったわ!」
と先生もびっくりしていたそうだ。
 あわてて2人の生年月日を聞いた先生の第一声は、
「この子たちとさっきの男の子のパパって同じ人?」
だったそうだ。
いや、どう考えてもあのパパの子だろう。思わず佑子さんのダンナさんの顔を思い浮かべる。3人とも雰囲気こそ違えど、みなそれぞれパパとママの特徴を引き継いでいる。

「うーん、ふたりとも変わっている・・・」
と先生は腕組みをし、莉奈ちゃんのことは秀才タイプで将来仕事と収入が結びつくタイプだと断言したそうだ。
 ただ昇平くんに対しては、「微妙だなあ~」と何やら考え込んでしまい、
「下手すれば犯罪者」
などど言い出し、佑子さんの肝を冷やしたらしい。

 そこで佑子さんは昇平くんに関する悩みを先生に打ち明けたところ、先生の見立ては以下の通り。
 まず昇平くんは学校という場が合わないタイプらしく、それで今は周りから浮いてしまっているが、中学生ぐらいになれば落ち着く可能性があるということ。
 とにかく彼の人格を否定することはタブーで、彼の言うことにきちんと耳を傾けてあげること。
 科学とか考古学とかに才能があり、うまく彼の個性を生かせてあげれば将来専門分野で博士とかになる可能性がかなり高いこと。
 本人が好きで得意な分野を伸ばしてあげなければ、どう転んでいくか微妙なこと。
 仕事に関しては莉奈ちゃんと違い、キャリアと収入が結びつかないタイプだという。
 「けどちゃんと人格を認めてあげて、興味のあることに打ち込むようにしてあげればいいってことだったから安心したよ。実際これからそうさせてあげたいと考えてたからね」
 と佑子さんは朗らかな表情を見せた。

佑子さんの場合①

「行ってきたよ。銀座」
詩音ちゃん(仮名)ママこと里美さん(仮名)の報告を聞いた翌週、莉奈ちゃん(仮名)ママこと佑子さん(仮名)が、そうおもむろに切り出した。
彼女とは、バレエのママ友であるが、それと同時に保育園でも娘と同じクラスのママ友でもある。
 娘も莉奈ちゃんも0歳児のころから保育園に入っていたので、お互い子供同士が赤ちゃんだったころから知っている、いわば働くママとしては古くからの同志といったところか。
 莉奈ちゃんには3つ違いのお兄ちゃんと2つ違いの弟がおり、3人の子供を抱えながら、SEとしてバリバリ働いているので彼女はいつも忙しい。
 私より年下だがほぼ同世代なので、私としては話しやすい相手である。

 そんな佑子さんには悩みがあった。
 それは莉奈ちゃんのお兄ちゃん昇平くん(仮名)のことだ。
彼が小学生になったとたん問題が続出した。もともと自由人で束縛されるのが嫌いな昇平くんの元来の性格は、集団生活での規律を重んじる学校教育と相性が悪かったらしく、さらには担任の先生との相性もよくなかったことが拍車をかけ、問題児のレッテルを貼られてしまった。
 昇平くんは友だち付き合いにも困難を感じていて、友だちとの間にトラブルを抱え、勉強も頭はいいのだが集中力が続かず、嫌いな先生の授業では教室を抜け出してしまうらしい。
 バレエの待ち時間にママたちでくっちゃべっているときに、佑子さんが昇平くんについて話すことでストレス発散をしていたが、たった1週間の間に何せ昇平くんはいろいろとしでかすのである。
 私が銀座の先生の話をしたときに、まっさきに食いついてきたのは佑子さんだった。

2009年5月11日月曜日

緊急レポート第2弾! 立川フラメンコ祭りに潜入! ②

さて話を立川に戻そう。去年は立川のストリート・フラメンコに誘われてはいたものの日程が合わず、私は参加を見送った。
けど今年はゴールデンウィーク前半は東京にいることになったので、思い切ってストリートで踊ってみることにした。
同じアホなら踊らな損々である。
そして当日。立川駅でみんなと待ち合わせると、どうやらそれらしき人々があっちこっちでたむろしている。
そもそも立川に足を踏み入れたことがかつてなかったのだが、駅近くはショッピングセンターがあったり、デパートがあったり、大きな商店街があったりと結構栄えている。
すでにおもな会場となるすずらん通りという通りにはスペインの国旗が飾られていて、フラメンコギターがBGMに流れている。
担当の人に、商店街の中にある会議室のような場所に案内される。そこが楽屋になっていて、着替えたりメイクをする場所になっていた。
私は夫と娘、息子を伴っていたのだが、どう考えても夫はその中には入れそうもなかったので、じゃあ子供たちを連れてその辺をふらついてくるよと、私に背を向けて去って行った。
夫の丸く姿勢の悪い背中を眺めながらためいきをつく。私は夫と2日前に大喧嘩をしでかし、冷戦中だ。
ええい、忌々しい!

我らがメンコメンバー(フラメンコの略ね)は、長谷川さん、早川さん、当山さん、佐藤さん、相沢さん、けいちゃん、そしてキャプテンの高橋さんと私の8人。
全員踊るアホウである。
私たちはおにぎりやらお菓子やらを頬張りつつ、めいめい派手な衣装に着替え、メイクに余念がない。
私の顔もいじっているうちにエスカレートして、もう立派なラテン系おばさんの完成である。
私は自慢じゃないが運動神経はしょぼいが、顔だけはタバスコを煮詰めたように濃いアロマの漂うけばい女である。
見た目だけなら上級者どころか、来日中のフラメンコ・ダンサーだと言い張ったら、オレオレ詐欺に引っ掛かる老人ぐらいならだまくらかせそうだ。
その天然のなんちゃってラテン顔に和田アキ子もびっくりのつけまつげである。もうどうとでもしてくれだ。
そして衣装は先日ゲットしたばかりのフラメンコ以外にまったく応用がきかなさそうなけばいドレス。
けばい顔にけばいドレス。いったいどうなるのだ、私?
それぞれ着替え終わると、もちろん衣装とメイクの品評会だ。それがすむと写真撮影開始! 
年齢も職業も立場も異なる女たちが乙女心を炸裂させて着飾り、己の存在を誇示するのだ。
「きゃー、当山さんのボレロ、私と色違い!」
「長谷川さんの、髪飾りかわいい~!」
「佐藤さん、ほそーい! そんなドレスがなんで入るの?」
「早川さんの衣装、キラキラだわ~」
黄色い声できゃあきゃあうるさい私たち。楽しいわ~。
見渡すとそんな乙女たちがもりだくさん。なんとストリート・セビジャーナスだけでも400人のフラメンコ・ダンサーが集まるという。

通りのフラメンコ・ギターの調べも音量が大きくなってきた。すずらん通りは人、人、人で、歩行者天国になった車道には400人のダンサーたち(私たちも含む)、歩道側にはカメラやらビデオやらを抱えたおじさん、おにいさんたち多数。
きっと家族が踊るから見にきた人たちも多いんだろうけど、中には純粋にフラメンコの雰囲気を味わいにきた男の人たちも多かったのだろう。ガンガンとフラッシュを焚かれ、気分はパパラッチに追いまわれさるセレブだ。
歩行者天国になっている通りの一番先のちょうどスペインの国旗が垂れ下がっているあたりに、ステージが設置されていてそこでフラメンコ・ギターとカンテ(歌)の人が生演奏をして、このイベントを主催している立川フラメンコの面々とプロ・フラメンコダンサー堀江朋子さんが踊りを披露してくれている。
空は雲ひとつない青空のもと、年季の入った踊りを老若男女問わず楽しむ。どんな踊りでも理屈じゃなくって、訓練され鍛え抜かれた動きを見るのはものすごくワクワクする。   
ステージの上で踊っている立川フラメンコの皆さんの動きは、2年ほどフラメンコを齧っているだけの私が見て足のステップがどうのこうのだとか、腕の動きがどうこうというのを参考にさせていただけるレベルではなく、ただだたあほうのようにきれいだなあとか、迫力あるよなあと見惚れるばかりである。

そしていよいよストリート・セビジャーナスの時間だ。なんとなく踊りながら行進するとばかり思い込んでいたが、人数が多すぎて行進するどころか、踊る場所が決められていて同じ場所でずっと踊り続けなければいけない。
私たちが割り当てられた場所は、牛丼の松屋だとかアイフルだとかの看板がデカデカと目立つ生活感あふれたエリアだった。
それでも色とりどりの衣装を身にまとった400人(きっともっといたと思うけど)のフラメンコ・ダンサーのたたずまいは、ここは立川の商店街だということを忘れさせてくれるに足る非日常的な華やかさに充ち溢れている。
思わず三輪明宏が著書で美意識の欠けた日本の街角、たとえば渋谷みたいなところでも歩いている人たちの衣装が美しければ街並みも違って見えると言っていたことを思い出してしまう。
美しくない看板の目立つ美しくない街角で、三輪いわく商業主義に侵されたユニセックスなダークカラーのファッションに身を包んだ男女を配置すると、すべてがより薄汚れて見えてしまう。
色とりどりの衣装を着た人々を見るにつけて、もし私が独裁者だったら葬式以外の黒禁止!、女性のズボン禁止、男女共Tシャツ禁止、とにかくカジュアル禁止などなどとお達しを出したいほど、歩いている人の衣装一つで本当に街並みも変わってしまうと思う。
美しくなければファッションにあらずだ。

生のフラメンコ・ギターとカンテによるセビジャーナスの演奏が始まる。それに合わせて私たちも踊る。
歩道には夫と娘、息子がレジャーシートを敷いて陣取っている。息子が私の顔を見て、
「こわいよお~!」
と怯えている。うーん、ちいと調子に乗ってあれこれ塗りたくりすぎたようだ。
デジカメやらビデオやら携帯の写メールやら手を替え品を替え、私たちを撮りまくっている夫。
娘はきれいな衣装を眺めてはうっとりしている。うーん、お主、やっぱり女やのう。
いざ踊りが始まると、狭いやら靴がいつものシューズではないことやらで何がなんやらわけがわからなくなっている。
教室によって同じセビジャーナスでも振付がずいぶん違うらしく、私たちの後ろにいたチームのセビジャーナスは曲が始まると同時にいきなり踊り出してしまうので、出だしが違う私たちにとっては勝手が違い、つられないように気をつけなければいけない。
あっちこっちの人とゴツンゴツンとぶつかりながら、休憩も挟みつつ、おおよそ10回ほどセビジャーナスを踊って、私たちの出番は終了。
この日は気温も高く4月なのに真夏日だったが、私たちが踊る場所はちょうど日陰でよかった。
踊るあほうと化した私たちはとにかく踊り狂い、存分に楽しんだのであった。いい汗かいた。
あとはビールを飲むのみだ。

当日打ち上げの幹事を仰せつかった私と当山さんは、できたばかりの池袋のスペイン風バルGを予約。
自慢じゃないが私は池袋のスパニッシュ・レストランは全部行っている。
スパニッシュ・レストランおよびバルはどこも味はいけているんだけど、惜しむらくは値段だ。どこもお高めなのでちょくちょくは行けない。
ところがGは本格的な味で値段は他店と比べて半額以下。
踊り狂いアドレナリンが大放出している私たちはとにかく食べる、飲む。そしてしゃべる。
冷戦状態(今は違いますよ)の夫も子どもたちを引き連れてきて、全員でポーズを決めた写真をすでに人数分プリントアウトして持ってきて、さっそく「相変わらずいいダンナさまよねえ」と人々の称賛を浴びている。
スペイン風スパークリングワイン・カヴァのボトルを次々と豪快に開け、大騒ぎする私たちは間違いなく人生を謳歌している。
ああ~、楽しかった!
よーし、来年も踊り狂うぞ!

来年の4月29日にもし暇をしている人がいるのなら、立川に行ってみるのもいいと思う。
そこにはラテン気質溢れる踊るあほうどもがたくさんいるから。
なんて立川の商店街のまわし者のようなことを書いてしまったが、こういった町おこしは大賛成だ。
こんな楽しいことが全国規模で広まってくれることを切に願う。

2009年5月10日日曜日

緊急レポート第2弾! 立川フラメンコ祭りに潜入! ①

 ここ数年、毎年4月29日の昭和の日は立川の町がフラメンコ一色になる。
昭和の日=立川=フラメンコ、それぞれまったく何も結びつかないが、とにかく昭和の日は立川でフラメンコの日なのである。
 前夜祭があったり、堀江朋子さんという新進気鋭のプロのフラメンコ・ダンサーによるストリートライブがあったり、フラメンコ・ギターやカンテ(歌)が生で聴けたり、なんだかとてもすごいことになっているらしい。
 中でも見どころのひとつが総勢400名によるストリート・セビジャーナス。
 セビジャーナスとは踊りの名前で、この踊りにフラメンコのすべての基本が詰まっている(らしい)ので、たいていの教室ではまずこの踊りから習うことになる。

 私は2007年の4月から近所のカルチャーセンターのフラメンコのクラスを受講しているのだが、このクラスも例外ではなく入門クラスはセビジャーナスを習う。
 なんでもスペインの盆踊りのようなものらしく、スペイン人なら誰でも踊れるというようなことを聞いたことがあったが、実際にスペイン人の友人ジョセップに、セビジャーナスを踊れるか?と聞いたら、そんなわけあるか!と言われてしまった。
 ちなみに彼はバニョーラというバルセロナからフランス方向に車で1時間ほどの町に住む作家だ。
 バルセロナを中心とするエリアはカタルーニャ地方と言われ、フラメンコや闘牛のアンダルシアとかマドリットとかセビリアとは言語も文化もまったく違うらしい。
 私たちがスペインというとやはりそういうイメージしかないが、スペインはおおざっぱに言うと4つのエリアに分かれ、それぞれの言語、文化を誇っている。
 カタランと呼ばれるカタルーニャ語を話し、カタルーニャ語で文筆活動をおこなっているジョセップは、政府から歩く文化財的な扱いを受けているらしく、国から経済援助を受けている。
 俳句本もカタルーニャ語で出しているジョセップは、二度国の援助で日本に短期留学に来ている。
 初めて彼が日本に来た1999年にふとしたことで知り合い、ボランティアで彼に日本語を教えたのがきっかけで家族ぐるみの付き合いが始まった。
 そのときの名残でいまだに彼は私を「先生」と呼ぶ。カタルーニャを代表する作家先生に「先生」と呼ばれるとは、私もたいしたもんである(←自慢気)。

 2年半ほど前に夫の国に里帰りしたときに、ジョセップの住むバニョーラにも立ち寄った。ちょうどバニョーラから車で10分ほどのジローナという町でスリー・キングス(スペインではクリスマスよりこちらを盛大に祝う)のお祭りの盛大なパレードがおこなわれていて、大いに堪能した。
 3人の王たちがキャンディーをばら撒きながら行進していく様子を、いまだに娘は覚えていて、ジョセップがプレゼントしてくれたスリーキングスにまつわる絵本(カタルーニャ語!)をよく眺めている。
 そのときにここはカタルーニャだから文化が違うよと言うジョセップに無理やり頼んで、バルセロナのスペイン村でやっているフラメンコ・ライブに連れて行ってもらい、初めて本場のフラメンコを見た。
 圧巻だった。どれぐらいすごかったかというと、いつもボーっとしている息子(当時2歳)が目をキラキラさせて身を乗り出して食いついていた。
 
 それから3ヵ月後に近所のカルチャーセンターでフラメンコを習うことになるのだが、自慢ではないが私は体が異常に固い。そのうえリズム感がない。そして運動音痴だ。
 それに加えて日頃の大量飲酒による脳細胞破壊で記憶力がない。産後太りが解消されていないため体も重い。
 ダメすぎるぞ、私。どうするんだ、私。
 だが和子先生(仮名)に罵倒されながらも、あきらめず懲りない私。継続は力よ。それもいっしょに習っている仲間たちが素晴らしいことに尽きる。
 年齢も職業もバラバラな仲間たちだが、いっしょに怒られたり、褒められたり、発表会目指して練習したり、いっしょにフラメンコを見に行ったり、飲みに行ったり、パーティーをしたりしているうちにすっかり打ち解けてしまった。
 こんなに女同士の大人数のグループでつるむのが楽しいとは! もし20代のころの私が見たらびっくりだ。
 
 さてセビジャーナスである。この踊りは1番から4番まであって、順番にまず足の動きを習う。
パサーダとかパソ・デ・セビジャーナスとか1番から4番まで共通の足の動きもあるのだが、4パターンの足の動きをまず覚えなければいけない。それまでにおおよそ半年。
次にブラッソといって手と腕の動きがつく。1番から4番までのブラッソがつくまでにおおおよそ半年。
つまり1年あれば手と足が両方動かせるようになるので、ここまでできればなんとか人前で踊ることができる。
ただセビジャーナスはこれで完成形ではない。
さらにパリージョと呼ばれるカスタネットがつく。1番から4番までカスタネットがつくのがおおよそ1年。
今の私のレベルだ。
そしてそのあとは2人1組でペアが組めるようになれたら終了。そこまでいくのにあと1年。
うちの教室はたいてい3年間入門クラスにいてセビジャーナスを習い、それから次の踊りに進んでいくのが王道パターンだ。
セビジャーナスが終了すれば入門コースも卒業で、3年かかってやっと初級クラスに入ることができるのだ。
フラメンコとはなんと奥深いのか。