2009年8月26日水曜日

オカンのリベンジ

 
 それで出来上がった家はなんとも微妙な按配だった。2階はまあいいのだが、問題は一階で、うちの実家は北東に面した角地に立っていて、南側も庭で隣家とはそれなりに距離があるので、日当たりが抜群にいいはずなのに、リビングが1日中電気をつけていないと真っ暗になってしまうほど暗いのだ。
 それでいてキッチンが丸見えで、居間に続く座敷は無駄に凝りまくった欄干が作られていて、ちょっと放っておくと埃まみれになってしまう。
居間(しかも畳な!)と座敷の南側に面したところには、なぜか押入れと廊下が作られていて、そのせいでせっかくの南側からの光が入らないのだが、廊下というのか縁側というのかから、なんちゃって日本庭園風の庭が見られるようになっている。
そのなんちゃってな庭が父のこだわりの集大成らしく、その庭をひねもす眺めながら、死の淵から蘇った父が、
「どや、大した家やろ。こんな家はここいらにはあらへんぞ」
と人口数百人の狭い田舎の町内で“俺様は一番”とよく自慢していたものだった。

ちなみに高度成長期に突貫で作られたこの新興住宅街は、低い山々に囲まれた盆地に作られていて、アルファベットのCを反対にしたような形になっている。
うちはその逆Cの形の入り口にあたるところにあり、入り口から中心部は一戸建てがずらりと並び、中にはそれなりに立派な家もある。
山に沿って左側には築50年の未だに家賃が1万円もしないという公団群が30棟ほど半円状に広がり、奥にはいわゆる文化住宅群が犇めき合っている。

公団には子どもの頃、友だちも住んでいたこともあってよく遊びに行ったので、まあそれなりに慣れているが、中学時代ヤンキーだったクラスメイトたちはみんなこの公団に住んでいた。かなりビーバップ率の高い地域だといえよう。

その奥の文化住宅群は、ビーバップどころか、公団エリアがお上品に見えて仕方なくなるようなアナーキーなエリアで、もはや秘境といっても良かった。
今でもたまに散歩がてらそっちのほうに行ってみると、なんなく足がすくんでしまう。今から考えると子どものいる家庭とかもなかったかもしれない。
先日も近くまで行ってみたときに、なぜかピカピカのフェラーリが泊まっていて、時折「ギョエエエエエエ~」という奇妙な声が大きくなったり小さくなったりしながら聞こえてきたり、かと思えば鶏の羽が方々に散らばったりして、ここはいったいどこでいつの時代なんだとちょっとしたトリップ感覚を味わってきたところだ。

普通、そういう形の住宅街は山に近い小高いところにお金持ちは住んでいて、低地に一般庶民が住むものだろうが、わが町は逆だった。
この町も今では老人ばかりになってしまい、若者も子どももいなくなってしまった。
それはさておき、父はこんな寂れたダメな町で「俺様は一番だ」とずっといばっていたのだ。わが親ながらアホである。
ちなみに私はこの町が子どもの頃から大嫌いで、物心ついた頃から「こんなところにいたら自分はダメになってしまう。絶対にいつか脱出してやる」と、「成り上がり」における矢沢永吉のように深く心に誓っていたのであった。

父が「このうちはここいらでは一番!」と鼻息荒く自慢するたびに、母は発狂し、
「あんたぁ~、トロいこと言っとりゃあすなよっ! こんなうち、一番なことあらすかぁ(←“あらすか”とは方言で“~であるはずがない”という意味。アメリカのアラスカ州のことではない)!! こんなしょうもない町で自慢になんかなるか! そういうのを井戸の中の蛙っていうんやわ。そのうち絶対に私の思い通りにしたるでねえ!! 覚えとりゃあよ! 人にお金だけ出させてこのままじゃすまさせんでねっ!」
と父を罵倒していたものだ。

それから月日が流れ、近所に住んでいた上の弟家族と同居を始め、商売も畳むことになったので、店舗部分が不要になり、それに伴い念願のリフォームを決行することになったのだ。
20年間、不本意な間取りに耐えに耐えたオカンのリベンジがついに始まるのだ。

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