2010年12月26日日曜日

息子のピアノ

 GWに行われるピアノの発表会も無事に終わり、晴れて私はピアノを辞め、代わりに息子が泰子(仮名)のピアノ教室に通うことになった。
 銀座の先生からは息子はピアノに向いているのでぜひやらせるべきだというアドバイスをもらっていたが、肝心の泰子が「Lくんにはまだ早いよ」と息子を教えることを渋っていたのだ。
 しかし当初の予定通り、GW明けから息子もピアノを習うことに。

 初日。真新しいピアノバックを持って、前もって指定されていた楽譜を息子に持たせる。
 泰子が選んだのは、「ぴあのどりーむ」という幼児向けのシリーズ。
 娘はオーソドックスに「バイエル」だったのだが、泰子いわく息子が「バイエル」を耳で聞いているはずなので、兄弟の場合は違うシリーズを選んだほうがいいそうなのだ。
 しかも息子が始めるのは、娘のときより遥かに易しいやつなのだという。
 「たぶんLくんはこれぐらいから始めたほうが良さそうだよ。そうだ。Lくんって鉛筆持ったことあったっけ?」
あるに決まってるっちゅうの!  泰子はハナっから息子のことをアホだと思っている。失敬な。
 「ぼく、ピアノ嫌だ。だったら大人になってからやるよ」とわけのわからんゴネ方をする息子。だいじょうぶかいな。

 「あ、Lくん。いらっしゃい。ちゃんとやるんだよ」
 息子が新たな生徒として加わることに不安そうな顔を見せる泰子。
 「&#&‘〈〉’‘“huuy’’(#)(‘!!」
 泰子の問いかけに奇声で返す息子。バレエ代も相当授業料をドブに捨てているようなものだが、ピアノもその二の舞になるのだろうか。不安。

 30分のレッスンが終わるころ、泰子のところに息子を迎えに行く。すでにレッス
ンは終了していたらしく、息子は泰子の娘の真美ちゃん(仮名)のディズニープリ
ンセスシリーズのスクーターで室内を猛スピードで飛ばし、泰子と真美ちゃんに
「もうやめてよぉ! いいかげんにしなさい!」と叱られていた。
 しかしまったく人の話を聞いていない息子。とにかく息子は自分がやりたいと
思ったことをやりたいと思ったときにやらないと気がすまないのだ。まったく自由
奔放。

 「どう? ピアノの調子は?」おそるおそる泰子に尋ねると、意外や意外。
 「Lくん、すっごくいいよ。物覚えもいいし、ちゃんと楽譜も読めるし、なんだ。こんなんだったら、もう少し難しい本から始めてもよかったかな」
というではないか!
もしや銀座の先生の言うことは当たってる?

そして翌週。
「やっぱりLくん、いいよ。指がぺたーってなるのは残念だけど、ちゃんと楽譜見て弾いてるし、指の番号も守ってるし、ドレミもちゃんとわかってるから、ピアノ向いてるよ。もしかしたらAちゃん(娘)より進みが速いかもよ」
と、泰子ベタ褒めである。おお~、ようやく息子に向いているものを探してあげられた感じだ。
 家での練習も思ったより嫌がらずにやるし、楽譜のワークもスムースだ。娘のときはドレミを教えるのにずいぶんと苦労したっけ。まあその甲斐あって娘は1年半ほどで「バイエル6」に突入し、すでに私が教えられるレベルはすぎてしまったのだが。

 ちょうど息子がピアノを習い始めた日に、オカンもピアノを始めた。オカンは私たちの発表会で同世代のオバサンたちが頑張っているのを見て、すっかり触発されてしまったのだ。有限実行。東京から帰って速攻で先生を見つけたらしい。奇しくも息子と同じレッスン曜日だ。
 「暇やで毎日2時間ぐらい練習しとるよ」と張り切るオカン。
 元来、マジメで負けず嫌いな人である。

 「Lには負けんでね。今度、あんたら帰ってきたときに勝負するでね」
 果たして67歳のオバサンと5歳児のピアノ対決の勝負の行方はいかに!?

2010年12月20日月曜日

渋谷の父④

「えーっと、お子さんふたりね。どれどれ。おっ! この子たちふたりともいいねえ~。両親よりずっといい運勢だよ。両親より成功するしね。お姉ちゃんもかなりいいけど、この弟くん、すばらしくいいねえ。うちの子どももこれぐらい良かったらねえ~。うらやましいよ。息子さん、相当期待できるよ」
おっ! マジですか!?

「何がいいって言ったらね。この子たちの大波がちゃんと若いときに来るんだよ。お姉ちゃんは30代、弟くんは20代に来るから、やっぱりね、成功する人っていうのはこういう若い時期にこの大波が来るんだ。若くて体力があるうちに来ると、どこまでも昇っていけるからね。実にいい運勢だよ」
へえ~。しかししつこいようだか、誕生日だけでそんなことまでわかるのかね? しかも同じ誕生日の人なんてゴロゴロいるのに。

「ふたりとも芸能界とかそういうのがいいよ。そういうところで大成するタイプで、けどお姉ちゃんはもうちょっと現実的でマスコミとかそっちもいいな。弟くんはもうこれモロ、芸術肌で音楽とか、スポーツとか、小説とかそういう世界で大成功を収めるタイプだよ。もしかしたら世界中で活躍するようになるかもよ」
マジぃ!?
芸能界は銀座の先生はいいとは言わなかったけど、息子が世界的に活躍するっていうのは銀座の先生にも言われた通り。それも芸術とか、スポーツもいいって言われてたし。

「けど息子さんは子どものころはあまり賢そうに見えないんだな。これが」
・・・・。なんていうことを言うのだ! 渋谷の父よ。
しかしそうなのだ。賢そうに見えないというか、それどころかアホにしか見えないのだ。今現在の我が息子は。

「けどこの子、実は頭が相当いいよ。大成するタイプだから、見守ってあげるといいよ。それには甘やかさず、スポーツでしごかれるとか海外に出して揉まれるとか、苦労させたほうがいいよ。とにかく海外にとっとと出すこと。あと中年以降は会社の社長に適性があるから、実業家としても成功しそうだね」
おお~。どうなっているのだ。息子よ。芸術家またはスポーツで世界的に活躍した後は、ビジネスでも成功とは、すごすぎるではないか。
うふ。私の老後に乾杯だな。ほれ、お母様の面倒をみるがいい(←なぜか女王風)。
こうなったら大いに長生きしたいものだ。そりゃ私たち夫婦も今とは違ってるよね。

「あと、小学校受験なんですけどぉ」と切り出すと、
「何なに? 国立? どこ? T大附属? G大附属?」
と突然目が爛々と輝きだす渋谷の父。いったいどうしたんだ?

「いやあ~。うちの子どもたちも受けさせたよ。懐かしいなあ~。まったくあの抽選ってやつには頭くるけどよお。どれどれ? あ、お姉ちゃんは全然ダメだな。1年のうちの天中殺が10月11月の2ヶ月だから、ちょうどそのころでしょ? 受験って。時期が悪いよ。あ? 何? 小学校受験ダメだった? そりゃそうでしょ。ちゃんとそう出てるよ。けど中学受験はだいじょうぶだから、そっちで勝負だな。で、弟くんはお姉ちゃんよりはマシだけど、微妙だな。中学がその代わりヤバイ時期だから、中学受験させるなら2月4日以降の試験日のところにすること。そうすればだいじょうぶ」

なるほどぉ~。これに関しては銀座の先生とまったく違う判定結果。しかし誕生日で合格不合格が出るのかね? しかも2月4日以降の試験日の学校って、学校選びの基準はそれかいっ!

けど親として子どもたちの運勢がこれだけいいと言われると、すごくホッとするし単純にうれしい。うふふ。頼んだわよ。

あ、そうそう。何度も話に出てくる大波。私に大波が来るのはいつなの? 誰だって大波が来る時期があるんでしょ? もしかして知らないうちに終わってたりとか?

「あ~。美央さんに大波ねえ。あなたに来るのはね、108歳のとき!」
え??? そこまで生きてないっちゅうの!

「占いでは人間の人生を120年で考えるからね。それでいけば美央さんは108歳から118歳までが大波なんだけど、仮にそこまで生きててもね、そんな時期に大波が来たら、ほんと、体力が持たなくてあっと言う間にお陀仏さんだよ。だからね。ある一定以上の年を越えたら、大波なんて来なくて平穏に過ごしたほうが幸せなんだよ。わかる? そういう意味では美央さんの運勢は波があまりないとも言えるかな」
ってそれは波が来ないからじゃんっ!

そんなオチがついたところで、占いはお開きに。しめて2時間半で1万円也。
1時間半ほどはレクチャーだったけど、まあ安かったのかな。
銀座の先生に言われたことと、重なっているところはたぶん信憑性が高いのかしら?

しかし、108歳ねえ~。
そんなこんなで以上、渋谷の父のお話終了!

2010年12月18日土曜日

渋谷の父③

 「あ~、ダンナさん、こりゃ頑固だなあ~」
と渋谷の父の第一声。
 「頑固でマイペースで自立と独立。守るものがあると強いタイプだよ。いわゆるエリートの星(←マジかっ!)で、働いてる奥さんが好きって出てるけど、あんた働いてるの?」
 ええ、ええ。働いていますとも。
 しかし生年月日だけで“働く奥さんが好き”って、出るものなのかね?

 夫の天中殺は2013~14年。天職は今年か2013年が吉。今年はスポンサー運あり。だそうだ。
銀座の先生も夫の天職は今年か、一番いいのは夫が48歳のときがいいと言っていたのでほぼ同時期だ。銀座の先生も今年は出世運があるって言ってたから、期待していいのかな。

「この人の波は48歳から58歳までの10年だから、その間は呼吸器系に気をつけるといいよ。この時期を過ぎれば豊かな晩年が待ってるから」
おっと、このあたりの話も銀座の先生の話に大いに重なるぞ。

尚、銀座の父によると、人には大波が来る時期が誰にでもあるそうだ。大波の時期は10年間。この大波とは運気が急上昇する時期だそうなのだが、肝心なのは大波がいつ来るかということ。
大波は大きな幸運も連れてくるけど、その代わりその時期はものすごく消耗もするらしい。
たとえば夫の大波の時期は中年過ぎているので、この時期に来ると体力も大いに消耗してしまい、下手すると大病することもあるそうなのだ。
だからこそこの時期を無事に乗り切れば、豊かな晩年が待っているのだという。
何よ。何よ。老後に期待できそうじゃない♪

「あとふたりの相性は“天剋地冲”だから、ものすごい強い腐れ縁で、こりゃ簡単には離婚できんわな」
あの~。離婚したいわけじゃないんですけどぉ~。
そりゃあ結婚して子どもを作るぐらいだから、当然どんな夫婦だって腐れ縁なんじゃないの?
「まあすごい腐れ縁でも相性は精神的、肉体的にも良好。そういう相性だね」
じゃあいいじゃんっ! 単に相性がいいって言えば! 腐れ縁っていうのが余分だっちゅうの!

「ふたりとも晩年に“天報”が出ているから、今とは違う状況にあるね」
「違うとは?」
「住んでいる場所とか。置かれている状況とか」
まあ良く違ってればいいんですけど。
あ、住む場所と言えば、銀座の先生は晩年私たちは「どんよりと曇った天気の悪い田舎でも都会でもない似たようなレンガ造りの家が並ぶ街に住んでいる」って言ってたから、やはり同じようなことを言われてるのかな。

「そうそう、美央さんは今年、来年は転職や引越しとかいいよ。変化の年になるから。あと海外旅行とかとにかく動くことだね。あと48歳から58歳までが芸術の星まわり。それと去年までが誹謗中傷の年だったんだけど、何かあった?」
転職は銀座の先生からもこの時期だって言われてたけど、引越しや不動産を買うのは3年待てって言われたからこの点はちょっと違うな。
あと誹謗中傷って何よ? 誰か私の悪口を陰で言ってたのかしら(←知らぬが仏!?)?

「今日さ、次に来る予定の人がキャンセルしちゃったから、その次の人が来るまで時間あるから、もうちょっと診てあげてもいいよ。他に知りたいこととかある?」
という渋谷の父。

せっかくなので、子どもたちのことも診てもらうことにした。

2010年12月16日木曜日

渋谷の父②

 まず空間を表す十干(甲、乙、丙、丁~発までの10の漢字)と、時間を表す十二支(子、丑、寅、卯~亥までの12の干支)がある。十二支に比べ十干は2つ足りない。この足りない部分が来た時期がいわゆる「天中殺」なのだという。
 また十干と十二支にそれぞれ+と-があり、その組み合わせは60通り。60歳を還暦というのは、その組み合わせがまた初めに戻ることから還暦と呼ぶという。
 「運」について言えば、宿命は先天運、運命は後天運なので、「宿命は変えられない。けど運命は変えられる」というのは、まったくその通りらしい。

 なるほど~。ほおぉ~。こりゃあ~、ためになるなあ~。
そこまでの話はよかった。けどそれから延々と続くレクチャーは、私には苦痛だった。山木たちはこのレクチャーがおもしろかったと言っていたが、なんだかこれ以上は私にはチンプンカンプンだったのだ。
話の内容が頭に入っていかないというのか、ここへ訪れる前に、息子の保育園の親子遠足で行った葛西臨海公園で走りまわされたことの疲れが一気に出てしまい、猛烈な眠気に襲われた。意識が薄れていくたびに、テーブルに置かれた「ご自由にお召し上がりください」とメモが添えられている飴のカゴに手を伸ばし、むしゃむしゃとリンゴ味やらぶどう味の飴を片っ端から口の中に入れていく。
もう口の中はリンゴ味やらぶどう味やらみかん味など混ざり合って、まさにミックスフルーツ状態! アゴが変な感じなのである。

しかも渋谷の父ったらホワイトボードにいっぱい漢字を書き込んでいて、読めないっちゅうの!
「美央さんは異常干支なのでいわゆる“せんじょう(←戦場!?)の花嫁”タイプと呼ばれるもので・・」
ホワイトボードに思いっきり、「異常干支」と書く渋谷の父。なんだか字面だけ見ると、なんだよそれって感じ。
「戦場の花嫁っちゅうのは、平時より有事に強いんだな。戦後のどさくさとか、世の中が乱れているときのほうが、本領を発揮できるんだよ。その代わり平和なときにはいまひとつというか。こういう人は揉めてる家に嫁ぐと揉め事が収まったりするんだけど、どう? ダンナの実家とか揉めてない?」
「まあお姉さんたちが揉めてるらしいですけど・・・」
「やっぱりなあ。けどあんたが嫁いできたから、そのうちおさまるよ。あと申と酉のときが美央さんの天中殺で・・・・」
専門用語を大いに交えながら解説する渋谷の父。

具体的に言われたことをまとめると・・・


・天中殺は2016~17年。2010年は8~9月が不安定。
・生月中殺で家族や社会からはずれやすい(←はずれもんですか・・・)。
・家を出る宿命(←確かに)。子どもはひとり(←ふたりです!)。兄弟はなし(←3人姉弟です!)。
※ただしこれには説明が必要で、この数は実際の人数ではないそうで、縁の薄さを表すそう。私が家を出る宿命なので“兄弟はなし”ということになるし、子どものうちのひとりは家を出るので“家に残るのはひとり”と出るそうだ。

・本質は「玉堂」で知性を表し、しっかりした母親で学校の先生タイプ。古典、伝統、古風、礼儀、理屈っぽく、理論好きと出ている(←そんな自分を見てみたい!)。
・人から映る姿は「司禄」。妻の星で、家庭的で堅実。情報収集に長け、蓄財に良し。いわゆる良妻賢母で約束事やしつけをよく守る(←どひゃ~。誰もそんなふうに見てないと思うけど・・・)。
・性質はプライドが高く、自尊心が強く、几帳面で、夫の名誉を守るタイプ(←爆笑)。
・俗に言う“あげまん”タイプ(←じゃあ、なんで結婚以来、夫の収入が下がり続けてるの?)。全体的にバランスの取れた良い運勢。波はあまりない(←乱世のほうが本領発揮できるんだろ?)。

などなどが私の運勢。では夫はというと・・・。

2010年12月12日日曜日

渋谷の父①

 山木(仮名)に教えてもらった連絡先に電話を入れ、山木と森重さん(仮名)と美野里(仮名)の名前をいっぺんに出すと、
 「ああ~はいはい。S社(←前の会社)の人たちね。あの会社の人たち、このところよく来るんだよね」
と渋谷の父は明るい声で言う。声だけ聞いていると東京の気のいいおっちゃんって感じ。
 しかし占いって口コミが本当に大切なのね。占ってもらっているS社の人たちはたいてい女性たちなんだろうけど、きっと切実な悩みを抱えている人が多いんだろうなあ。
 山木や森重さんや美野里は結婚しているけど、圧倒的にシングル女性が多い職場である。
 女性として今後どう生きていくのか、結婚は? お相手は? 仕事は? 子どもは? 悩みや葛藤もてんこ盛りだろう。
 わかるよ。そんな気持ち。私もよく。

 予約はあっさり取れ、そのときに私と夫の生年月日をあらかじめ聞かれ、息子の保育園の親子遠足のあと渋谷にゴーと相成った。

 当日。方向音痴の私は迷いに迷ってようやく渋谷の父の元へ。
 場所はマンションの一室。住まい用のマンションというより、ほとんどの人がオフィスとして使ってそうな古びた大きめなワンルームといった趣だった。
 銀座の先生のところとはゴージャス感が違う。
 「はい。いらっしゃい」と迎えてくれた渋谷の父はでっぷりと肥えていて、似てないけどなぜか青空球児を連想してしまった。

 「あのさあ、最初に聞くけど、なんか悩みあんの? 生年月日見てもおたく、特に悩みなんてなさそうなんだよねえ」
 いきなり核心をついてくる渋谷の父。しかし生年月日だけで悩みの有無なんてわかるのか? だって私とまったく同じ生年月日の人なんて、世の中に何十万人といるんじゃないの?
 「う~ん。特にないです」
 「そうでしょう! こういう人が一番診るのむつかしいんだよ。あのね、ここに来る人はね、もっと深刻な悩みを抱えてんの。借金で首がまわんないとか、ダンナからひどい暴力を受けているとか、子どもがグレてどうしようもないとか、まるっきり縁がなくて男の人と付き合ったことがないとか、わかる? みんなもっと大変なんだよ」
 「はあ~」
 「でもまあいいや。今日時間ある?」
 「あります」
 「じゃあ、今日は占いの考え方っていうのか、そういったこともレクチャーしていきますからね」
と渋谷の父はホワイトボードに向かって何やら書き始める。
 出たっ! これが話に聞いた六星占術の話とやらなのだな。

 「まずは陰陽五行の話からしていくと・・・」

 こうして渋谷の父のレクチャーが始まった。

2010年12月9日木曜日

銀座の次は渋谷か!?

 前の会社の後輩山木(仮名)と先輩森重さん(仮名)が遊びに来た。山木は去年結婚してグアムで式を挙げたので、そのときの写真とか持ってきてもらったのだった。
 青い空と白い砂浜で幸せそうに微笑むウェディングドレス姿の山木はバッチリ決まっていて、とてもきれいだった。
 そのときの話などを肴にお酒を飲む私たち。

「どうよ。新婚生活は?」
 「楽しいですよ♪」
 「そりゃそうだって! 今楽しくなかったらいつ楽しいのよ!」
 森重さんも既婚者なので、彼女も私も結婚生活においても山木より先輩にあたるわけだ。
 「そうそう、山木も銀座の先生に彼とのこと占ってもらったのよねえ。その通りになってる?」
 「う~ん。微妙かも。私はアンチ・銀座の先生ですからねえ」
 「まあ計算間違いはないよなあ~」

 前にも書いたが私の紹介で銀座の先生のところで診てもらった山木は、計算間違いをされてしまった。
 銀座の先生の鑑定法のひとつが生年月日のひとつひとつの数字を足していって、逆ピラミッドの3角形を作る。3角形の角に来た数字を元に占う人の資質とか運勢とかを診ていくのだけど、山木の場合はこの3角形の足し算を間違えられていたのだ。
 しかし間違えるか? この足し算って一桁の足し算だから小1レベルですよ。
 2万円も払ってそれはないでしょう。
電話をかけて計算ミスの件を伝えた山木だったが、たった7分だけ間違えた分を電話鑑定されてそれで終わってしまったらしい。
 7分かよっ! 計算するとたった2333円分ですよ! それは納得いかないよなあ~。
 銀座の先生を紹介してあげた人は皆、先生のファンというか信者になり、その後も何度も鑑定してもらうようになってるが、そうした理由から唯一「あんなんは認めませんっ!」と山木はアンチ・銀座の先生になってしまったのだ。

 「そうそうお姉さん(←私のこと)に伝えなきゃ。先週、私と森重さんと美野里(←同じく前の会社の後輩)の3人で占いに行ってきたんですよ」
 「なぬ? 占い?」
 「そうそう、うちの会社(←前の会社。森重さんと美野里はまだ働いている)で流行っていてみんな行ってるのよ。すごっく当たるって評判で、山木ちゃんに話したら行くって言うから行ってきたんだ」
 「おもしろかったですよぉ~。私は絶対こっちのほうが銀座の先生よりおススメ。お姉さん、知ってます? 渋谷の父って言うんだけど」
 「渋谷の父ぃ!?」

 「六星占術って言うんですかねえ~。聞かれるのは生年月日だけなんですよ。名前とか手相とか霊感とかは一切なし。私たち3人まとめて診てもらって、イチイチ当たってておもしろかったですよぉ。ふつう人が占ってもらうの聞く機会ってないですもんね」
 「そうそう。3人で結局3時間診てもらったんだよね~」
 「3時間も! それでおいくら万円?」
 「ひとり7000円でいいですよって」
 「それは安いっ! しかし3時間も聞くことがある?」
 「ずっと占ってもらってるわけじゃないんだよ。“お時間ありますか?”って聞かれて“ある”って答えたら、陰陽五行って言うの? 暦の読み方とか六星占術の基本をレクチャーされるんだよね。それが勉強になるというか、ほぉ~って感じで、そのレクチャーだけでも1時間半!」
 「何それ! 占い教室か!?」
 「その話がおもしろいんですって! すっごくためになりましたよぉ」

 「で、何言われたの?」
 「えーと、それぞれの性格とか向いてる仕事とか、パートナーとの相性とか・・・」
 「それは当たってたのかい?」
 「それはもう。最高におかしかったのは美野里とダンナさん、超腐れ縁なんですって!」
 美野里とそのダンナは確かに15年ぐらい前から周りに猛烈に反対されながら、くっついたり別れたり揉めたり騒いだりしながら、ようやくめでたくゴールインしたところだった。
 それは確かに腐れ縁だろう。

 「へえ~、私も行きたいっ! どうしたらいいの?」
 「やっぱり清永ちゃんならそう言うと思ってたよ~。そこは紹介制だから私たちのうち誰かの名前を出せば予約取れるよ」
 「わりと予約もすぐ取れますから。お姉さん、行ったらまた教えてくださいね」
 
 ということで、さっそく渋谷の父に連絡してみることにしたのであった。

近田さん(仮名)の突然死④

 私が辞めたあと、ドラムンベース・チームは大躍進を遂げ、近田さん、桜井さん(仮名)の当初の目論見通り、クラブ系邦楽アーティストを手がけスマッシュ・ヒットを飛ばし、その後はアイドルまで手を広げミリオンを連発、この功績で部長はグループ全体の取締役に就任するほど大出世を遂げた。
鈴木さんはいつの間にか会社を辞め、フリーのプロデューサーになったとのことだが、その後消息不明だ。
 そのまま順当に行けば、ふたりとも分社化されたレーベルの社長ぐらいにはすぐになれていたはずだった。

 しかしそれだけ会社に貢献しながら、会社自体もどんどん変わっていき、彼らのように派手に遊び、派手にお金も使い、非合法の悪い遊びも悪びれずにガンガンやるというのが許される雰囲気ではなくなってきた。
 それでも華々しい実績と人脈と知名度を生かし、それぞれ業界ナンバー1とナンバー2の芸能プロダクションの音楽プロデューサーとして転職し、そこでも有無を言わさぬ実績を上げていたそうだ。
 
 告別式には早紀ちゃん(仮名)と出かけた。葬儀は近田さんが転職した芸能プロダクションとの合同葬儀になっていた。いわば半社葬のような形だ。
 葬儀場は読経の代わりに近田さんがこれまでの半生で手がけた音楽が流されていて、送られた花もひとつの会場には収まりきらず、3つの会場に所狭しと飾られていた。
  「俺が死んだらここまで人は来ないな」と早紀ちゃんが隣でぼそっと呟く。
 レコード会社、芸能プロダクション、出版社、テレビ局、ラジオ局、広告代理店、芸能プロダクション、音楽プロダクション、有名人、芸能人、アーティストなどからの今まで出た葬儀でみたこともない数の花々と、焼香のために長蛇の列を作って並ぶ人々。近田さんの才能に、近田さんの人柄に魅了された人ばかりなのだろう。
 告別式なのに華やかで賑やかだ。これも本人の人徳以外にないだろう。

あっちこっちで知った顔を見つける。ほとんどの知り合いはきっちり会わなかった時間の分だけ年を取っていた。けど黒い縁取りの写真に納まっている近田さんは、まったくと言っていいほど変わっていなかった。45歳でこの落ち着きのなさはないでしょうというのが、写真からの印象だ。
 焼香のため並んでいると、毎日強制的に大爆音で聞かされたドラムンベースが流れた。走馬灯のように当時の思い出が蘇り、涙が出た。あれから私の人生はまったく違ったものになっているのに、毎日ドラムンベースで洗脳されてた日々はまるでつい昨日のことのようだった。


 喪主は近田さんの奥さんで「超」がつくほどきれいな人だった。隣は小学校低学年ぐらいの近田さんと瓜二つの息子さんがいて、懸命に涙を堪えている姿にはかえって胸を打たれる。家族を残していく無念さはいかばかりかと思う。
 早紀ちゃんは隣でずっと「俺たちもよぉ、いつ何で死ぬかわからない年齢になっちまったんだよなあ」と呟いている。
 去年の今頃はやはり同じく前の会社の先輩の須崎さんが膵臓癌で亡くなった。いつの間に私たちの世代は、誰かのお父さんとかお母さんのお通夜だとか告別式だとかじゃなくて、本人のためのお通夜だとか告別式に出なきゃいけなくなったのだろう。
 
 
 棺の中の近田さんも少し以前より痩せたような気がするけど、いかにもやんちゃそうな業界人そのままだった。
 「なんで急に死んじゃうわけ? “あのとき本当は清永は黒人に×××はしてませんでした、おもしろおかしくふかしましたって、ちゃんとみんなに訂正してよ”」
心の中で棺の中にいる近田さんに話しかける。
 「バカ、なんで急だったかなんてこっちが知りてぇよ。噂の件は感謝しろよ。お前なんか、何にも実績ないくせに、なんだかすごいことをやりそうな女だってイメージをちょいとプロデュースしてやったんだぜ。まあ元々はおもしろかったらなんでもよかったんだけどよぉ」
 そういつものように答えてくれるような気がした。

 香典返しの中には当日葬儀で流れた曲のセットリストも添えられていた。年代順に近田さんが関わってきたもので、洋楽から邦楽まで幅広く、いずれも80年代終わりから今まで、時代を代表する曲ばかりだった。
 心底、音楽業界は近田さんというすごすぎる才能を失った損失は大きく、今後音楽業界がさらに斜陽化していく暗い前兆なのだろうと彼を見送った誰もが感じたはずだ。

2010年12月7日火曜日

近田さん(仮名)の突然死③

 しかし物事はそんなにうまくいくわけではなく、私が作ったCDも鈴木さんの作ったCDもまったく売れなかった。
 結局1年経って、私たちのプロジェクトは芽が出そうもないと判断された。
 それもあって、そのときいっしょに組んでいた外部のスタッフからこっぴどい裏切られ方をした。私と組んでもそれ以上いいことはないと思ったのだろう。
部長宛に私を中傷する手紙を送っていたのだ。部長から呼び出され、「読んでみろ」と言われその手紙に目を通したとき、あまりにひどい内容で頭にカァーっと血が上った。私を貶めるのと同時に自分のアピールもしていて、言うに事欠いてか本当はドラムンベースも好きなのでそちらのチームに入れてほしいと手紙には書いてあったのだ。

 部長は「お前、もうちょっと人を見る目を養えよ。コイツは最低なヤツだな。まあ今後いっさい出入り禁だな」と言った。ついでに「俺はクリエイティブなことはわからないけど、人を見る目はあるんだよ。コイツがダメなヤツでお前が騙されているのはわかってたけど、代わりに好きなことができたんだ。それで十分だろ?」と付け加えた。
 部長が手紙の内容を鵜呑みにせずキッパリとした態度をとってくれたことはありがたかったが、私はモロッコ音楽を騙されて作ったわけでもないし、作ったものには誇りがあった。好きなことをしたから裏切られても仕方がないとはどうしても思えなかったし、何よりその外部スタッフの品性の卑しさに吐き気を催した。
 
 その日の夜、珍しく近田さんが「飲みに行こうぜ」と声をかけてきた。親衛隊の若者のうちふたりがいっしょについてきた。
 「よお。手紙読んだぜ。まったく最低な野郎だな。安心しろ。ドラムンベース・チームは1000%ありえないから。しかしお前は本当にバカだなあ。あんな業界ゴロなんかと組むぐらいだったら、俺たちと組んでりゃよかったんだ。しかもお前は社員なんだ。なんだかんだ言ってほっとけないんだよ」
 飲みながら近田さんがしみじみと言った。
 「けどお前は根性あるよ。実は桜井さんと見所のあるヤツだってお前のことずっと評価してたんだぜ。売れなかったけど作ったCDだってカッコよかったし、何より俺たちの誘いを蹴ったヤツなんて今までいなかったんだから、それだけでも大したもんだよ」
 そう言われてしまうとあとは涙腺が緩むのに任せるしかなかった。それまで孤独な戦い方をしていると思っていたから、まさかそんなに優しい言葉をかけてもらえるとは思っていなかった。
 「泣くなよ。バカ。だからお前はバカなんだよ」
 
そのあとみんなで近田さんの行きつけのストリップバーに繰り出した。お前が払っておけと10万円近い領収書を切らされた。
 その前の店ではなんだかでたらめにドンペリをガンガン開けて、近田さんがやはり10万円以上の領収書を切っていた。
 「なんだよ。清永を慰めるためになんで俺がこんな大金払ってるんだよっ! 次はお前払えよ」と連れて行かれたのがストリップバーだったわけだ。トホホ。

 私たちはベロベロに酔っ払って、なぜか近田さんといっしょにタクシーで明け方、私の部屋まで帰ってきていた。
 部屋に入って、「なんで近田さんがうちにいるの?」と聞くと、「バカ。お前が送れってうるさかったからだろ」と近田さんは言い、うちにある壁一面のCDを眺めていた。
 「ふう~ん。こういうのがお前の趣味なんだ」とひとしきりCDのラベルをチェックし終わると、「お前、俺とやる気あるの?」と突然、真顔で聞いた。
 「何言ってんの。あるわけないじゃん」と笑うと、「そうか。じゃあ、ここいてもしょうがねえから、帰るわ」と背中を向け振り返ることもせず、部屋から出ていった。
 なんなの? なんなの? いったいなんなの? 意味不明!と思ったが、眠気には勝てず、私はそのまましばらく爆睡した。

 そして翌日、社内では私に関する噂があっちこっちに駆け巡っていた。
 「昨夜、清永が麻布のストリップバーで黒人に×××した!」
というので、もちろん発信源は近田さん。次から次へと噂好きの社員たちが私たちのオフィスに来て、「おい、清永、聞いたぞ。お前、マジかよ?」と好奇心むき出しに聞いてくる。
 「なわけないじゃないですか! まったくぅ! ちょっと近田さん、ちゃんと私の無実を晴らしてくださいよ!」と近田さんに詰め寄ると、
「バカ。おもしろいからそのままにしておけよ。この会社はこういう話大好きなんだからよ。お前の株も上がるぞ。変な業界ゴロに怪文書送られてしょげてる場合じゃないからな。サービスでもっと広めとくよ」
と楽しそうに笑った。
 確かに前の会社はクリエイティブ系な人間は男女問わず、遊んでいる豪快なイメージがあるほうが当時リスペクトされた。スタッフに裏切られて落ち込んでいるという話より、近田さんが広めてくれた噂のほうが遥かに人にプラスのイメージを与えられた。今から思うと変な職場だが、業界人とはかくあるべしというステレオタイプが横行していたのだ。

 その後すぐ、私に人事異動があり、そして会社も辞めた。近田さんとはそれっきりだった。
 もう12年以上前の話だ。

2010年12月6日月曜日

近田さん(仮名)の突然死②

彼らは次に私を傘下に入れようとした。ふたりより年上でクセの強い鈴木さんは初めから対象外で、年下で女の私は組しやすいと思ったのだろう。
「お前もドラムンベース・チームに入れよ。俺と桜井さんがお前のこと、ディレクターとしてひとり立ちできるように育ててやるって。普通、そんなチャンスないぞ。この業界のどれだけの人間がそんなチャンスを狙ってると思ってるんだよ。なんていったって俺と桜井さんだせ」
毎日近田さんは私にそう声をかけ続けた。桜井さんは私が軍門に下るまで口をきかないと決めていたらしく、声をかけてくるのはもっぱら近田さんだった。

ちなみに鈴木さんからも自分のプロジェクトを手伝ってくれないかと声をかけられたが、こちらは言語道断であった。
あそこまで嫌われ者になるほど実際の鈴木さんは嫌な人ではなかったが、いかんせん趣味が違いすぎる。
そんなぐらいならとっくにドラムンベース・チームに入っている。
面と向かってそう言うと、鈴木さんは「そらそうやろなあ~。けどお前はハッキリ物言うヤツやなあ~」と関西弁で困ったような笑顔を見せた。

そして私は自分のやりたいことを最優先した。
近田さんと桜井さんという両巨頭からのお誘いを蹴るという、私の判断はありえないことだったらしい。おかげで一時期はありえないことをしたヤツとして社内で有名になってしまった。
とにかくこのときの状況は何から何まで、ありえないことだらけだったのだ。
もちろん面子を潰された形になって、黙っているふたりではない。
私が一時期社内有名人になったのは、彼らふたりがせっせと私の悪口を言いまわったからでもある。

 ドラムンベース・チームの誘いを断って、やりたいことを始めた私に対する風当たりは強かった。
 あてつけ、あてこすり、イヤミはもう当たり前。
 今でもよく覚えているのは、「高速道路を三輪車で逆走するかのようなバカ」というのと、「英語もできないくせに英語も通じないようなところに行くバカ」と本人を目の前に大声でよその部署の人に悪口を言われたことだ。
 いやあ、まったくその通り!(←納得するなよ。自分で) 実に言いえて妙とはこのこと。
 挙句、近田さんと桜井さんのふたりは社内にDJブースを持ち込み、毎日大爆音でドラムンベースを流し続けた。
 おまけにふたりの親衛隊みたいな若者を何人も連れてきて、爆音に合わせて躍らせていた。しかし、踊るかね? 真昼間の会社で、ふつう。これは大爆音と踊る阿呆どもで周りを洗脳する作戦だったのだ。
 毎日よその部署から苦情が来たが、ふたりのすることなので誰も面と向かって文句が言えなかった。けど向かいに位置する演歌制作部のおっちゃんたちは本当に迷惑そうだった。
 ちなみに早紀ちゃん(仮名)はそのとき、隣の部署にいてふたりのところによく遊びにきていた。早紀ちゃんはふたりから小バカにされてたけど、早紀ちゃんはまったく気にするそぶりがなかった。もしやマゾ?と内心思ったものだ。

 そんな中で、私はひたすらやりたいことをやった。モロッコ音楽の制作を通じて世界に興味を持った。それまで究極なドメスティック人間だった私の世界観がガラリと変わった。その後しばらくして転職したことも国際結婚することになるのも、このときの経験を抜きにしては語れない。
 
 大逆風の中、私も鈴木さんも自分のCDを完成させた。
 今でもこのときに作ったアルバム2枚は自分の誇りになっている。
 音を聞かせたとき、それまで私を徹底的に無視していた近田さんと桜井さんが、
 「お前、カッコええの作ったやん! じゃあ、あとは頑張って売れよ」
と言ってくれたときは、少しはふたりに認めてもらえたような気がして本当にうれしかった。

2010年12月4日土曜日

近田さん(仮名)の突然死①

 突然訃報が届いた。
 知らせてくれたのは前の会社の後輩の三原(仮名)。亡くなったのは近田さんという前の会社の先輩だ。
 朝、自宅で突然倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまったという。
 享年45歳。あまりに若すぎる、あまりに早すぎる死である。

 近田さんとは特に親しかったわけではないし、会社を辞めてから一度も会っていない。
 とはいえ彼に対して私は特別な思い入れを抱いていた。
 私が新入社員だったころから、音楽雑誌編集者とレコード会社の宣伝マンという関係で薄く仕事をする仲だったのだが、決定打は入社7年目のときに社長肝入りでまったく新しい制作オフィスが作られたときに、同じ部署になったことだ。

 新しいオフィスでは当時としては画期的なA&R制がとられ、従来のように制作部と宣伝部がそれぞれ独立しているのではなく、同じ部署内で役割分担をするインディーズ・レーベルのような組織として出発した。
 しかも新しいことなら何をやっても構わないということだった。 
 私たちのオフィスは曲者揃いだった。全員やりたいことがハッキリしていて、協調性のかけらもなく、部長は管理畑出身なのでクリエイティブ系なことは何もわからず、発令が出た当日、「誰だよ。こんなメンバー集めたのは?」ということで社内が騒然となったらしい。実際いろんな人から「お前、とんでもない部署に入ったな」と慰めされるやら、励まされるやらで、実際新しい部署に行ってみるとメンバーのアクの強さは想像を絶していた。

 現場は近田さん、桜井さん(仮名)、鈴木さん(仮名)、私の4人。近田さんと桜井さんには洋楽で大ヒットを飛ばした実績があり音楽的センスも抜群で、豪快な人が多い社内の中でも彼らの言動の派手さに敵う人はなく、社内のみならず業界内でも超有名人だった。
鈴木さんはずっと営業畑で制作希望だったがそれまで叶わず、豪快な人が多い社内の中でも仕事の仕方が細かくこだわりが強く、人付き合いも下手だったので、こちらは嫌われ者として有名だった。
あとは音楽雑誌の編集やレコード営業を経て、オフィスに配属された私。

レコード会社のクリエイティブとしての実績があるのは近田さんと桜井さんだけで、鈴木さんと私はズブの素人。
近田さんと桜井さんの意見は一致していて、このレーベルでは当時クラブで流行りつつあった「ドラムンベース」をやるべきだと主張していた。
海外のドラムンベースのアーティストの作品を何枚かリリースし、レーベルイメージを固めてからそのレーベルに賛同する日本人アーティストにもゆくゆくは手を広げていき、そこから大ヒットを狙うというのが彼らの戦略だった。
ふつうであればこのふたりが組んで何かをするというだけでも、業界の大ニュースだ。
上司がクリエイティブ出身者であれば(←なくたって!)なんのためらいもなく、鈴木さんと私は手足としてふたりを支えるという役割を与えただろう。

ところが鈴木さんにも私にもそれぞれどうしてもやりたいことがあった。
初めから「ドラムンベース」のセクションに配属されていたのならいざ知らず、「新しいことなら何をやってもいい」とお墨付きのセクションにせっかく配属されたのである。
鈴木さんは歌謡曲を、私はモロッコ音楽と黒百合姉妹がやりたかった。
私たちの主張をふたりは一蹴し、特に鈴木さんのタイアップ狙いの歌謡曲はふたりの美意識にはありえなかったらしく、風当たりは相当なものだった。
ひとつのセクションが与えられた制作費と宣伝費には限りがある。しかし「どれに芽が出るかわからない」と部長は何かひとつに絞ることなく、「とりあえずそれぞれ好きなことをやってみろ。半年経って芽が出そうなものに乗っかる」と普通なら考えられない宣言をしたのだ。
この状況に激怒したふたりは徹底抗戦した。けど部長の気持ちは変わらなかった。

2010年12月3日金曜日

ピアノの発表会♪③

そして3部のトリはもちろん一番上手い音大を目指すような高校生だ。彼女らはショパンの「ソナタ2番」とか「ソナタ3番」、「バラード4番」などの超難易度の高い曲を披露する。
他にも3部には小学4年生でベートーベンの「テンペスト」を弾く子だとか、中学生や高校生が「英雄ボロネーズ」だの「幻想即興曲」だの「黒鍵エチュード」などといった難しい曲に挑戦しているのだ。

泰子のピアノ教室は小さいころから習い始めた子が大きくなっても辞めないのが特徴らしく、中学生や高校生も多い。
しかしそれ以上の特徴として泰子のところは大人の生徒も多いのだ。一口に大人といっても30代や40代の人もいれば、お孫さんといっしょに習っているという60代や70代の人もいる。
 そのことにオカンが大いに衝撃を受けていた。 

毎年休憩を挟んで合間に子どもたちによる合唱が入ったり、泰子と真由子先生の連弾が入る。
やっぱり今年もふたりは花嫁のお色直しのような派手なドレスを着て、髪もばっちりセットして登場してくる。
 今年の選曲はリストの「ハンガリー狂詩曲第2番」。超難易度の高い曲に挑戦してくる生徒には負けないという矜持に溢れた選曲で、この曲を弾きこなすために派手なドレスに身を包み、己を奮い立たせているのだろうと思わせる気迫に満ちた演奏であった。
 泰子は日ごろは適当なヤツだが、ピアノを弾く姿は別人である。やっぱり音大出身は伊達ではないと思う。

 さて肝心な私の演奏だが、ボロボロであった。毎年のことだが練習の時には引っかからないパートを本番でトチるのである。日ごろトチるところはものすごく意識しているから、むしろ本番ではだいじょうぶだったりする。
 日ごろトチらないところをトチると、頭の中が真っ白になる。トチることを想定していないので、どうしたらいいかわからなくなるからだ。
 まったく越路吹雪風の赤いドレスが泣くぜ。

 代わりにといってはなんだが、3部のトップバッターで次に真美ちゃんや麻奈ちゃんが続くというプレッシャーの中でも、娘はミスひとつせず「タランテラ」を見事に弾ききった。
 エライ! よくやった! 感動した!(←小泉元総理風)

 しかし思いっきり見知らぬ何人ものお母様方から、
 「今年も可愛いドレスですねえ。でもそれ、去年泰子先生の娘さんが着ていたやつですよね?」
と突っ込まれた。
 ガーンっ! なんで皆さん、そんな他人のドレスとかチェックしてるわけ?
 う~ん。道理で泰子や真由子先生が、娘のドレスは目立ってたからバレると気にしていた理由がわかったような。
 さあ~てと、来年はドレスどうしましょうねぇ!?(←ちょっと憂鬱)

実は今回の発表会は、私にとって最後の発表会だ。
 これが終わったら、いったんピアノをやめるからだ。
理由はそろそろ息子にピアノを習わせるため。3人揃ってピアノをやるのも出費がかさむし、ピアノの練習をする時間も実際ない。
まあ問題は息子がちゃんとやってくれるかどうかだが、息子は3部の途中からすっかり飽きたのか大口を開けて爆睡している。
果たしてだいじょうぶか?

まったくやる気のない息子の隣で、それほど音楽が好きではないはずのオカンが食い入るようにステージを見つめている。
「あの人、私よりも年上やねえ?」
とステージでリストの「愛の夢」を弾いている柴田さん(仮名)という泰子の生徒さんを指差す。柴田さんは上品な感じの女性で確か74歳と言っていたっけ。去年は確か「乙女の祈り」を弾いていて、年々ちゃんと上達している。
 「私もあれぐらい弾けるようになるやろか?」
 「?」
 「私、この前67歳になったところやろ。74歳っていったらあと7年あるがね。7年後にはあれぐらい弾けるようになっているやろか?」
 「さあ~? 練習しだいちゃう?(←適当)」
 「決めたっ! GW明けから私もピアノ習う! L(←息子)も始めるんやろ? じゃあLとどっちが先に上達するか競争やっ(←5歳児と競争すんなよっ! しかも赤ちゃん返り中の!)。60の手習いやでぇ~(←四捨五入すると70です!)」

 ということでピアノの発表会は思わぬところで、オカンの音楽心に火を点けたのであった。
 

2010年12月2日木曜日

ピアノの発表会♪②

そして発表会当日。
発表会は泰子(仮名)と真由子先生(仮名)の教室の合同で行われるのだが、泰子は東京と埼玉の両方でピアノ教室をやっていて、埼玉の生徒のほうが人数も多い。真由子先生も埼玉の人なので、場所は毎年川口のリリアホールか、与野本町の彩の国さいたま芸術劇場というのが相場になっている。
今回は川口のリリアホールが会場になり、HANAちゃんも駆けつけてくれた。

今年の娘の衣装は真美ちゃん(仮名)から借りた、全身にスパンコールが散りばめられている白いヒラヒラフリフリのドレスだ。
今回は娘も楽屋で美容師さんに髪をやってもらうために、真美ちゃんと真由子先生の娘麻奈ちゃん(仮名)とともに鏡の前に座っている。
3人とも小学1年生と同い年。真美ちゃんも麻奈ちゃんもそれぞれ先生の娘だけあって、派手なドレスを着た女の子たちの間でも毎年際立って華やかにしている。
真美ちゃんはピンクの、麻奈ちゃんはレモン色のヒラヒラフリフリのお姫様ドレスに、ふたりとも「キャンディー・キャンディー」のイライザか、はたまた「ベルばら」のマリー・アントワネットのように巻き髪でティアラをつけている。
娘は髪をふんわりアップにしてもらいこれまたティアラと、3人が揃うとピアノの発表会というより七五三のようだ。
もし私が小1のときこんなお姫様みたいな格好をさせてもらったら、狂喜乱舞しただろうなあと思っていたら、やはりいまどきの子どもの3人もお姫様のような格好をしているとワクワクするらしく、「私たちが一番お姫様!」とずっと3人で楽しそうだ。

今年の発表曲は、私はショパンの「雨だれ(←簡単バージョンね)」、娘はブルグミューラーの「タランテラ」だ。
娘にとっては2回目の発表会で、去年は「かたつむり」と「聖者の行進」を弾いた。両曲とも単音のみでいかにも幼児の発表会の曲という感じだった。今から思うとそんな幼稚な曲を水色のゴージャスなお姫様ドレスで弾いたのだから、トホホである。
しかし今年の曲は全然違う。もう両手でバンバン、ペダルも踏みまくりである。「タランテラ」のレベルがどれぐらいかというと、私が弾く曲より遥かに難しい。たった1年でものすごい進歩である。

 ここの発表会は3部構成になっていて、1部は初心者、2部は中級レベル、3部は上級レベルとわかりやすい構成になっている。
去年娘は1部の2番目の出場だった。私はかろうじて3年ぐらい前から2部に入れてもらっている。
 今年娘の出番はなんと3部のトップバッター。初心者からいきなり上級レベルに大抜擢だ。
 「Aちゃんはうちのホープだから3部にしたよ。3部のトップバッターにコケられると話になんないから、絶対に完璧にしてきてね」
と泰子からものすごいプレッシャーをかけられた。

 さらにプレッシャーなのは、娘の次に真美ちゃん、麻奈ちゃんと続くのだ。 
当たり前だけどふたりとも母親がピアノの先生なので衣装が派手なだけではなく、それ以上にものすごい英才教育を受けている。
 もうふたりとも幼稚園の段階でシューマンとか弾いちゃっているのだ。
そもそも泰子は真美ちゃんが受験などで邪魔されることなく音楽に専念できるように、幼稚園受験を頑張りその結果O女大附属という、見事幼稚園から高校(←希望すれば大学も)までのエスカレータ式の学校の合格切符を手にしたのだ。
もう気合が全然違う。

いいのか? こんなところに娘が入ってきて。

ピアノ発表会♪①

 ここ数年GWのスケジュールを立てるのが難しい。その元凶はピアノの発表会がGWど真ん中にあるからだ。
 私と娘は近所のママ友にしてお受験エキスパートの泰子(仮名)にピアノを習っている。泰子の生徒は中学生や高校生も多く、彼らは日ごろ勉強で忙しくGWぐらいしかピアノの練習もできないので、GW以外の日程での発表会は難しいのだという。
 そんなこともあってGWはなかなか帰省もままならない。
その代わりに、今年は2月のバレエの発表会のときに、体調がいまひとつということでオカンが上京できなかったので、ピアノの発表会には来てくれることになったのだ。

今回オカンは3泊4日のスケジュールを慌しく過ごすことになる。
初日の夜は、友人のジョン&留美(仮名)ファミリーと我が家でホームパーティー。ジョンの弟トムが来日したので、ウェルカム・ジャパン・ディナーを夫が腕を奮って振舞うことになっている(夫は元フレンチのシェフで趣味はホームパーティー)。
2日目はピアノの発表会で、そのあとHANAちゃんを招いてホームパーティー。
3日目は葉山に住むクリフ&朝子(仮名)ファミリー宅に遊びに行きそのまま1泊し、翌日東京に戻ってから家に帰るというハードスケジュールだ。
しかもジョンはアメリカ人、クリフはユダヤ系オーストラリア人、HANAちゃんは関西人、朝子は台湾系とめっちゃインターナショナルである。
オカンの人生の中で一番国際色豊かな4日間だったことは間違いない。

さて、ピアノの発表会で毎年悩まされるのが衣装だ。
発表会は泰子の教室と、泰子の音大時代の友人である真由子先生(仮名)の教室と合同で行われる。
泰子と真由子先生は「衣装に気を使わないのは言語道断。衣装に気合を入れることによって演奏にも気合が入る」と頑なに信じており、毎年ふたりとも「花嫁のお色直しかっ!?」と突っ込みたくなるような色鮮やかなドレスで登場する。もちろんドレスは毎年新調し、楽屋に美容師を呼びつけるほどの念の入れようだ。

それを生徒にも強要するのだ。色もグランドピアノ(←スタンウェイの超高そうなやつ!)が黒なので、黒は禁止。スニーカー禁止、カジュアル禁止、ミニ禁止、特に幼稚園・小学生の女の子は華やかにしてくることと事前に衣装チェックまでされるのだ。
これで派手にならないはずはない。特に女の子の母親たちはここぞとばかりに娘たちを飾り立てるので、毎年エスカレートしてきている。
こういう発表会ではだいたい入学式とかで着るようなワンピースやスーツが相場だと思っていたが、ここでは誰もそんな地味な格好をしていない。

かくいう私も去年は泰子にそそのかされ、娘のために水色のドレスを買った。もうフリフリヒラヒラのお姫様ドレスだ。しかしこんなデコラティブなドレス、発表会以外にいつ着るっちゅうねんっ!
よしこうなったら毎年発表会で着倒してやると思っていたら、
「Aちゃん、今年は何着せるの?」と泰子が聞いてくるので、「去年と同じでいいよ」と答えたら、「だめだよ~! 去年と同じだなんてかわいそうじゃんっ!」と猛反対するではないか。
去年真美ちゃんが着ていたのは、白いドレスでスパンコールが全体に散りばめられていたこちらもフリフリヒラヒラなお姫様ドレスだ。
「じゃあさ、子どもたちのドレス、今年は交換しようよ」
と私が提案したら、断ると思っていた泰子が少し考えてから、
「そうだね。Aちゃんのドレス、去年実はこっちでもいいなあって買うとき、さんざん悩んだやつなんだ。いいよ。じゃあ今年はそうしよう」
と言うではないか。それではということで、事前にドレスを交換していた。

ところが直前になって、「やっぱ真美ちゃんに新しいドレス買ったんだ~」と泰子。
なんでも真由子先生から、
「去年のAちゃんのドレスは相当目立ってて話題になってたから(←いつ?)、だめだよ。借りたことがすぐばれるよ(←それってだめなの?)。真美ちゃんが着ていたのは白だからみんなの記憶にあまり残ってないかもしれないけど、Aちゃんのドレスはやめたほうがいいよ」
と強弁に反対されたらしいのだ。
まあ私としては真美ちゃんのドレスが借りられれば余計な出費をせずにすむので、それはそれで一向にかまわなかった。
ついでに私にも派手にしろと、越路吹雪が舞台で着るような赤いロングドレスを泰子が貸してくれた。
「これで美央さんもAちゃんもショぼい演奏したらシャレになんないからね。衣装に負けないように頑張ってよ」
と事前に泰子から大いにハッパをかけられていたのである。