2010年12月6日月曜日

近田さん(仮名)の突然死②

彼らは次に私を傘下に入れようとした。ふたりより年上でクセの強い鈴木さんは初めから対象外で、年下で女の私は組しやすいと思ったのだろう。
「お前もドラムンベース・チームに入れよ。俺と桜井さんがお前のこと、ディレクターとしてひとり立ちできるように育ててやるって。普通、そんなチャンスないぞ。この業界のどれだけの人間がそんなチャンスを狙ってると思ってるんだよ。なんていったって俺と桜井さんだせ」
毎日近田さんは私にそう声をかけ続けた。桜井さんは私が軍門に下るまで口をきかないと決めていたらしく、声をかけてくるのはもっぱら近田さんだった。

ちなみに鈴木さんからも自分のプロジェクトを手伝ってくれないかと声をかけられたが、こちらは言語道断であった。
あそこまで嫌われ者になるほど実際の鈴木さんは嫌な人ではなかったが、いかんせん趣味が違いすぎる。
そんなぐらいならとっくにドラムンベース・チームに入っている。
面と向かってそう言うと、鈴木さんは「そらそうやろなあ~。けどお前はハッキリ物言うヤツやなあ~」と関西弁で困ったような笑顔を見せた。

そして私は自分のやりたいことを最優先した。
近田さんと桜井さんという両巨頭からのお誘いを蹴るという、私の判断はありえないことだったらしい。おかげで一時期はありえないことをしたヤツとして社内で有名になってしまった。
とにかくこのときの状況は何から何まで、ありえないことだらけだったのだ。
もちろん面子を潰された形になって、黙っているふたりではない。
私が一時期社内有名人になったのは、彼らふたりがせっせと私の悪口を言いまわったからでもある。

 ドラムンベース・チームの誘いを断って、やりたいことを始めた私に対する風当たりは強かった。
 あてつけ、あてこすり、イヤミはもう当たり前。
 今でもよく覚えているのは、「高速道路を三輪車で逆走するかのようなバカ」というのと、「英語もできないくせに英語も通じないようなところに行くバカ」と本人を目の前に大声でよその部署の人に悪口を言われたことだ。
 いやあ、まったくその通り!(←納得するなよ。自分で) 実に言いえて妙とはこのこと。
 挙句、近田さんと桜井さんのふたりは社内にDJブースを持ち込み、毎日大爆音でドラムンベースを流し続けた。
 おまけにふたりの親衛隊みたいな若者を何人も連れてきて、爆音に合わせて躍らせていた。しかし、踊るかね? 真昼間の会社で、ふつう。これは大爆音と踊る阿呆どもで周りを洗脳する作戦だったのだ。
 毎日よその部署から苦情が来たが、ふたりのすることなので誰も面と向かって文句が言えなかった。けど向かいに位置する演歌制作部のおっちゃんたちは本当に迷惑そうだった。
 ちなみに早紀ちゃん(仮名)はそのとき、隣の部署にいてふたりのところによく遊びにきていた。早紀ちゃんはふたりから小バカにされてたけど、早紀ちゃんはまったく気にするそぶりがなかった。もしやマゾ?と内心思ったものだ。

 そんな中で、私はひたすらやりたいことをやった。モロッコ音楽の制作を通じて世界に興味を持った。それまで究極なドメスティック人間だった私の世界観がガラリと変わった。その後しばらくして転職したことも国際結婚することになるのも、このときの経験を抜きにしては語れない。
 
 大逆風の中、私も鈴木さんも自分のCDを完成させた。
 今でもこのときに作ったアルバム2枚は自分の誇りになっている。
 音を聞かせたとき、それまで私を徹底的に無視していた近田さんと桜井さんが、
 「お前、カッコええの作ったやん! じゃあ、あとは頑張って売れよ」
と言ってくれたときは、少しはふたりに認めてもらえたような気がして本当にうれしかった。

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