2010年12月4日土曜日

近田さん(仮名)の突然死①

 突然訃報が届いた。
 知らせてくれたのは前の会社の後輩の三原(仮名)。亡くなったのは近田さんという前の会社の先輩だ。
 朝、自宅で突然倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまったという。
 享年45歳。あまりに若すぎる、あまりに早すぎる死である。

 近田さんとは特に親しかったわけではないし、会社を辞めてから一度も会っていない。
 とはいえ彼に対して私は特別な思い入れを抱いていた。
 私が新入社員だったころから、音楽雑誌編集者とレコード会社の宣伝マンという関係で薄く仕事をする仲だったのだが、決定打は入社7年目のときに社長肝入りでまったく新しい制作オフィスが作られたときに、同じ部署になったことだ。

 新しいオフィスでは当時としては画期的なA&R制がとられ、従来のように制作部と宣伝部がそれぞれ独立しているのではなく、同じ部署内で役割分担をするインディーズ・レーベルのような組織として出発した。
 しかも新しいことなら何をやっても構わないということだった。 
 私たちのオフィスは曲者揃いだった。全員やりたいことがハッキリしていて、協調性のかけらもなく、部長は管理畑出身なのでクリエイティブ系なことは何もわからず、発令が出た当日、「誰だよ。こんなメンバー集めたのは?」ということで社内が騒然となったらしい。実際いろんな人から「お前、とんでもない部署に入ったな」と慰めされるやら、励まされるやらで、実際新しい部署に行ってみるとメンバーのアクの強さは想像を絶していた。

 現場は近田さん、桜井さん(仮名)、鈴木さん(仮名)、私の4人。近田さんと桜井さんには洋楽で大ヒットを飛ばした実績があり音楽的センスも抜群で、豪快な人が多い社内の中でも彼らの言動の派手さに敵う人はなく、社内のみならず業界内でも超有名人だった。
鈴木さんはずっと営業畑で制作希望だったがそれまで叶わず、豪快な人が多い社内の中でも仕事の仕方が細かくこだわりが強く、人付き合いも下手だったので、こちらは嫌われ者として有名だった。
あとは音楽雑誌の編集やレコード営業を経て、オフィスに配属された私。

レコード会社のクリエイティブとしての実績があるのは近田さんと桜井さんだけで、鈴木さんと私はズブの素人。
近田さんと桜井さんの意見は一致していて、このレーベルでは当時クラブで流行りつつあった「ドラムンベース」をやるべきだと主張していた。
海外のドラムンベースのアーティストの作品を何枚かリリースし、レーベルイメージを固めてからそのレーベルに賛同する日本人アーティストにもゆくゆくは手を広げていき、そこから大ヒットを狙うというのが彼らの戦略だった。
ふつうであればこのふたりが組んで何かをするというだけでも、業界の大ニュースだ。
上司がクリエイティブ出身者であれば(←なくたって!)なんのためらいもなく、鈴木さんと私は手足としてふたりを支えるという役割を与えただろう。

ところが鈴木さんにも私にもそれぞれどうしてもやりたいことがあった。
初めから「ドラムンベース」のセクションに配属されていたのならいざ知らず、「新しいことなら何をやってもいい」とお墨付きのセクションにせっかく配属されたのである。
鈴木さんは歌謡曲を、私はモロッコ音楽と黒百合姉妹がやりたかった。
私たちの主張をふたりは一蹴し、特に鈴木さんのタイアップ狙いの歌謡曲はふたりの美意識にはありえなかったらしく、風当たりは相当なものだった。
ひとつのセクションが与えられた制作費と宣伝費には限りがある。しかし「どれに芽が出るかわからない」と部長は何かひとつに絞ることなく、「とりあえずそれぞれ好きなことをやってみろ。半年経って芽が出そうなものに乗っかる」と普通なら考えられない宣言をしたのだ。
この状況に激怒したふたりは徹底抗戦した。けど部長の気持ちは変わらなかった。

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