2010年12月9日木曜日

近田さん(仮名)の突然死④

 私が辞めたあと、ドラムンベース・チームは大躍進を遂げ、近田さん、桜井さん(仮名)の当初の目論見通り、クラブ系邦楽アーティストを手がけスマッシュ・ヒットを飛ばし、その後はアイドルまで手を広げミリオンを連発、この功績で部長はグループ全体の取締役に就任するほど大出世を遂げた。
鈴木さんはいつの間にか会社を辞め、フリーのプロデューサーになったとのことだが、その後消息不明だ。
 そのまま順当に行けば、ふたりとも分社化されたレーベルの社長ぐらいにはすぐになれていたはずだった。

 しかしそれだけ会社に貢献しながら、会社自体もどんどん変わっていき、彼らのように派手に遊び、派手にお金も使い、非合法の悪い遊びも悪びれずにガンガンやるというのが許される雰囲気ではなくなってきた。
 それでも華々しい実績と人脈と知名度を生かし、それぞれ業界ナンバー1とナンバー2の芸能プロダクションの音楽プロデューサーとして転職し、そこでも有無を言わさぬ実績を上げていたそうだ。
 
 告別式には早紀ちゃん(仮名)と出かけた。葬儀は近田さんが転職した芸能プロダクションとの合同葬儀になっていた。いわば半社葬のような形だ。
 葬儀場は読経の代わりに近田さんがこれまでの半生で手がけた音楽が流されていて、送られた花もひとつの会場には収まりきらず、3つの会場に所狭しと飾られていた。
  「俺が死んだらここまで人は来ないな」と早紀ちゃんが隣でぼそっと呟く。
 レコード会社、芸能プロダクション、出版社、テレビ局、ラジオ局、広告代理店、芸能プロダクション、音楽プロダクション、有名人、芸能人、アーティストなどからの今まで出た葬儀でみたこともない数の花々と、焼香のために長蛇の列を作って並ぶ人々。近田さんの才能に、近田さんの人柄に魅了された人ばかりなのだろう。
 告別式なのに華やかで賑やかだ。これも本人の人徳以外にないだろう。

あっちこっちで知った顔を見つける。ほとんどの知り合いはきっちり会わなかった時間の分だけ年を取っていた。けど黒い縁取りの写真に納まっている近田さんは、まったくと言っていいほど変わっていなかった。45歳でこの落ち着きのなさはないでしょうというのが、写真からの印象だ。
 焼香のため並んでいると、毎日強制的に大爆音で聞かされたドラムンベースが流れた。走馬灯のように当時の思い出が蘇り、涙が出た。あれから私の人生はまったく違ったものになっているのに、毎日ドラムンベースで洗脳されてた日々はまるでつい昨日のことのようだった。


 喪主は近田さんの奥さんで「超」がつくほどきれいな人だった。隣は小学校低学年ぐらいの近田さんと瓜二つの息子さんがいて、懸命に涙を堪えている姿にはかえって胸を打たれる。家族を残していく無念さはいかばかりかと思う。
 早紀ちゃんは隣でずっと「俺たちもよぉ、いつ何で死ぬかわからない年齢になっちまったんだよなあ」と呟いている。
 去年の今頃はやはり同じく前の会社の先輩の須崎さんが膵臓癌で亡くなった。いつの間に私たちの世代は、誰かのお父さんとかお母さんのお通夜だとか告別式だとかじゃなくて、本人のためのお通夜だとか告別式に出なきゃいけなくなったのだろう。
 
 
 棺の中の近田さんも少し以前より痩せたような気がするけど、いかにもやんちゃそうな業界人そのままだった。
 「なんで急に死んじゃうわけ? “あのとき本当は清永は黒人に×××はしてませんでした、おもしろおかしくふかしましたって、ちゃんとみんなに訂正してよ”」
心の中で棺の中にいる近田さんに話しかける。
 「バカ、なんで急だったかなんてこっちが知りてぇよ。噂の件は感謝しろよ。お前なんか、何にも実績ないくせに、なんだかすごいことをやりそうな女だってイメージをちょいとプロデュースしてやったんだぜ。まあ元々はおもしろかったらなんでもよかったんだけどよぉ」
 そういつものように答えてくれるような気がした。

 香典返しの中には当日葬儀で流れた曲のセットリストも添えられていた。年代順に近田さんが関わってきたもので、洋楽から邦楽まで幅広く、いずれも80年代終わりから今まで、時代を代表する曲ばかりだった。
 心底、音楽業界は近田さんというすごすぎる才能を失った損失は大きく、今後音楽業界がさらに斜陽化していく暗い前兆なのだろうと彼を見送った誰もが感じたはずだ。

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